「大逆事件」「幸徳秋水」という単語を聞いて、その意味するところを即座に理解できる、あるいはある程度でもわかる人々が、現在どれほどいるだろうか。「大逆事件」とは、明治44(1910)年に起きた明治天皇の暗殺未遂事件だ。これを機に、当時の社会主義思想者は大弾圧を受け、地下に潜伏することになる。

 この時代の人々のことを描き、今から50年以上前の昭和39(1964)年に木下順二が激化したのがこの『冬の時代』で、劇団民藝によって上演されて以来、今回が50年の歳月を経ての再演となる。100年以上前の時代を、50年ぶりに再演する劇団の勇気は大したものだ。恐らく、初演時の出演メンバーはほとんどいないに等しい状況で、丹野郁弓はこの戯曲をどう現代に蘇らせるかに腐心したようだ。全三幕、10分の休憩を2回挟んで3時間を超える大作の台詞劇を、私には当時の「青春群像劇」として見せようとしているかのように感じた。

 弾圧の中で、自分たちの思想を熱く語り、激しくぶつかり合う。皮肉の応酬があれば、若者の視点からの年長者への批判もある。今は、人と人の関係性が希薄になり、議論を行う場が少なくなった。まして、政治に関する話題を熱く語り合っている若者は激減した。私が大学生の頃は、特定の思想を持った学生たちにより授業が中断され、ストライキを起こし、という事件があったが、それとても時代の大きな流れではなく、私がいた大学のごく一部で起きた小さな事件に過ぎない。

 しかし、この作品が扱っているテーマは、神に等しい天皇を暗殺しようとし、その罪により死刑に処せられた人々がいたことが大前提になっている。どんな理由があれ、どんな事情があれ人殺しはいけないに決まっており、法のもとで裁かれる。同じような思想を持った人、あるいはその方向へ傾斜しそうな人々が弾圧を受けるのは当然だ。しかし、その中で「売文社」という出版社を興し、時代に抵抗しようとする「渋六社長」を中心に、売文社にはさながら梁山泊のように若者が集まって来る。

 この作品では、渋六社長以下、登場人物は当時の作家や思想家のモデルがいる。しかし、今、その人名をここで細かく対比することは、時代の中では意味がなくなってしまっただろう。観客は、登場人物が実在の誰に相当するのかを知らずとも、作品、台詞で語られる思想や行動で、観客なりのイメージを結べばよいだけの話だ。実在の人物とは言え、100年以上前の人々にリアリティを感じることは不可能であり、である以上は、舞台の上で役者が創り出す人物にリアリティを感じればよいのだ。

 では、役者陣について触れることにする。幕開き当初は、どうしても「明治」という時代感が出ない。それは時に着物の着こなしであり、わずかな台詞のアクセントだったりする。昭和がすでに遠くなりつつある時代に、明治時代のリアリティを求めても、観客にも理解・実感できようもないことはわかっていても、いささか現代劇めく。しかし、芝居が進むに従ってそれがさほど気にならなくなる。渋六先生を演じる千葉茂則と、妻の日色ともゑのベテラン二人の牽引力が大きいのだろう。メンバーの中では「ショー」を演じる塩田泰久、「お婆さん」の箕浦康子が印象に残る。

 古い作品をそのままにしておけば、やがては誰も顧みなくなる。上演するには幾多の困難が伴うものだが、その想いをしてこそ、今の時代に甦る作品もある。そこで新たな発見もあるはずだ。この芝居は、そんな一本である。