戦後70年を迎えた今年、演劇界でも戦争を題材にした作品の上演が例年よりも多かったように感じる。それが当然の心理だろう。その中でも、この作品は、原作者の俳優・加東大介がニューギニアで実際に体験したことに基づいており、映画化された折にも大ヒットし、映像や舞台でもたびたび上演されて来た。今回はそれを前進座が上演しているが、この劇団が上演することには大きな意味がある。と言うのは、加東大介は当時前進座に属していた俳優であり、召集令状が来た時にも「市川莚司」(いちかわ・えんし)の名で舞台に出ていたからだ。その後、加東は前進座を離れ、テレビや舞台で活躍をした後、昭和50年に64歳の生涯を閉じた。こうしたことどももキチンと書いておかないと、時代の流れの速さの中ですぐに埋もれてしまうのだ。

 さて「南の島に雪が降る」だ。昭和19年、ニューギニアの奥地、マノクワリでは戦況が厳しさを増す中で食糧や燃料の補給路を絶たれ、マラリアや栄養失調などで多くの兵士を喪い、兵士の士気は下がる一方だった。そこで、士気を鼓舞するために、司令官たちが相談の上、マノクワリに演芸分隊を作ることにした。島に配置された兵士の中には、スペイン舞踊のダンサー、ムーラン・ルージュの脚本家、元コロムビアの専属歌手、友禅のデザイナー、長唄の師匠、そして本業の役者と多士済々である。オーディションの後で、演芸分隊が活動をはじめ、各部隊を慰問に回る。もう内地へ帰ることを諦めかけている兵士たちに、分隊は苦労を重ねて女形の着物を拵え、化粧をさせて故国の女性の姿を見せ、大人気を博す。中にはジャングルの奥から片道四日もかけて、芝居を見せてもらえないか、と頼みに来る兵士もいた。

 とうとうマノクワリに「歌舞伎座」ができ、人気作品『瞼の母』の上演が決まった。もう明日をも知れぬほど容態が悪化した東北出身の兵士のために、紙で作った雪を舞台に降らせ、故郷を想い出させようとする悪戦苦闘する人々…。

 この芝居は群集劇とも言うべきもので、誰のこの部分が際立っていた、というよりも、作品の味わいがどうだったかを評価すべきだろう。もちろん、主役の加藤徳之助(加東大介の本名)を演じた嵐芳三郎をはじめ、司令部参謀を演じた藤川矢之輔らの第三世代が安定感のある芝居を見せた功績は大きい。ただ、ともすればあまりにもよくできた美談で終わってしまいかねない内容に、リアリズムを持たせた瀬戸口郁の脚本と、西川信廣の演出は緻密で、評価できる。美談だけではすまない「人間」が描かれていたからだ。もっと言えば、作者の加東大介が本に描いたドラマも、それだけですべてではなかったはずだ。戦地へ取られた人々の中には、戦争当時の事を一切語らずにその生涯を終える人もいる。思い出すのも口にするのも憚られる、あるいは嫌悪するような経験もたくさんしているはずだ。

 また、現代の感覚からすれば、戦争の状況下でわざわざ仮説とは言え300人規模の劇場を建てるよりも他にすることがあっただろう、と通常は感じるだろう。しかし、当時のニューギニアはもう応援の物資も武器も運べる状況ではなく、率直に言えば座して死を待つのみ、という苛酷な状況だったのだ。植物を育てても、収穫までの数か月を持ちこたえることができず、道端の草であろうが木の根であろうが、奪い合いのようにして食べることで生き延びるしかなかった。人が死の瀬戸際に立った時、宗教や祈りと同等に、心に癒しを与えるのが演劇であることは、この戦争の他の国の収容所の例にもある。

 それらをあからさまに見せるのではなく、その痕跡を微かに感じさせることが重要なところだと考える。それが巧くできている脚本だったために、人間の良い面も醜さをも取り混ぜて一つの物語に出来上がったのだ。これから、この作品が前進座の新たな世代のレパートリーに加えられ、次の世代へ伝えるべき事柄を、芝居を通じて残してほしいものだ。