昭和37年生まれの私は、戦争は知らない。昭和4年生まれの父から機銃掃射や空襲の話はたびたび聞いたが、リアリティを持つことはできなかった。私と戦争をつなぐ微かな糸のような記憶があるとすれば、昭和40年代初頭、今のように綺麗でも賑やかでもない頃の新宿の西口と東口を繋ぐ悪臭が漂うトンネルの際に、「傷痍軍人」と思しき人が白衣で座っていたのを、言いようのない、また理解のできない不安と恐怖で見つめていたことだろうか。

 戦後70年を迎える今年は、私よりも遥かに若い劇作家たちが、それぞれの年代の視点で「先の大戦」を捉え、劇化している。戦後17年目に生まれた私の戦争に関するリアリティを考えても、その点はさらに稀薄なものになるのは致し方のないことだ。それよりもむしろ、そうした年代でありながら自分の視点で戦争を見つめ、捉え直すことの意義の方が大きいと言えるだろう。

 青年座に書きおろした『崩れゆくセールスマン』で、豊田商事の事件を見事に切り取って描いて見せた野木萌葱(もえぎ)の筆が、この戦争のどの部分を切り取り、どう描くのかに興味の焦点があった。タイトルの通りに、「外交官」である。戦争を悪い方向へ進めたとされている関東軍や陸軍の軍人ではなく、あえて「文官」である外交官が、戦争のさなかにどういう思想を持ち、具体的には何をしていたのか。まっさらな状態でこの人物たちを見つめてみよう、という感覚は新鮮だ。同時に、難しいところへ目を付けてしまった作者の苦しみと歓びがあっただろう。

 今の若い観客に、石原莞爾、広田弘毅、松岡洋右、木戸幸一、重光葵らの名前を並べてみても、何もピンと来ないのは当然だ。それは観客の責ではなく、「昭和史」をきちんと教えて来なかった戦後教育の問題だが、これは教育論ではなく、劇評なのでその問題は置く。しかし、そうした観客のために、昭和の歴史において重要な人物を説明せざるを得ない。恐らく、「重光葵」と書いて名の部分を「まもる」と読める観客もそう多くはなくなって来ただろう。歴史はこうして移ろうからこそ、書いておかなくてはならないのだ。

 ここで、「若い世代が書くことにはリアリティがない」と片づけられる人はいない。戦時中の出来事をすべてリアルに描くことを目的とするなら、戦国時代の物語も、江戸時代も話も書ける人はいない、という簡単な理屈だ。それよりもむしろ、若い世代が戦争をどう捉え、何を書き残そうとしているかを見るべきだろう。

 青年座の面々は、あまり動きのない会話中心の舞台、特に一幕が90分、二幕が55分という膨大な台詞を、黒岩亮の演出のもとによく咀嚼していたと言える。写真や映像で知る限りの実物と比べていささか若く見える人もいるが、物真似ではないのだから、そこは良しとしよう。できれば、もう少し「昭和の空気感」が感じられれば良かったかもしれない。すでに70年以上前の話であり、言葉の発し方やまとわせる雰囲気に一工夫加えれば、更によかっただろう。また、説明が多くなるのは仕方がないという前提でも、一幕をもう少し短くしても問題はなかっただろう。思い切って観客の想像力や知識に委ねてしまっても悪くはないだろう。大きな問題になる台詞でなければ、多少の事が呑み込めずとも仕方がないほどに、もはや「戦争」は遠い歴史的事実になってしまったのだ。もちろん、それが戦争を軽んじる理由にはならない。

 注目すべきは、決して大きいとは言えない、160人程度の劇場が満員で、若い観客が多かったことだ。今の若者は何事にも無関心のように言われているが、決してそうした人々ばかりではない。自分の感覚で、どういう形態で戦争に触れればよいのか、を考え、その中に「演劇」というキーワードがあれば、こうして劇場へ足を運ぶ。

 民衆の芸術である「演劇」が、歴史を語り継ぎながら、一瞬の時間を共有できることの価値はここにある。