「夫が多すぎて」
2014.10.30 シアタークリエ
英国の偉大な小説家で劇作家でもあるサマセット・モームの代表的な戯曲である。ウエルメイド・プレイとも言うべきコメディで、1919年にロンドンで初演された作品だ。今から約100年前、第一次世界大戦が終わった後の時代をコメディにしたもので、質の高い作品であることは間違いないが、やはり随所に古さが感じられる。今回の上演では、演出の板垣恭一が上演台本を新たに作り直し、時代感による古さをなるべく感じさせないようにしたこと、また、役者の個性に合わせて現代に近づけたことが大きな特徴だろう。
第一次世界大戦が終わって間もないロンドンで、魅力的な女性・ヴィクトリア(大地真央)は、夫が戦死したため、夫の親友だったフレデリック(石田純一)と結婚をし、新たな生活を送っている。そこへ、戦死したはずの最初の夫・ウイリアム(中村梅雀)が突然帰って来た。ヴィクトリアは、一体どちらの妻なのだろうか。夫二人が混乱を来している最中に、戦争で大金を手にした大金持ちのレスター(徳井優)がプロポーズを…。
確かに、イギリス好みの品の良いコメディだ。大地真央が、とんでもなくわがままで、実は夫に迷惑がられている女性を、嫌味がないように演じている。ただ、台詞の調子が時として『マイ・フェア・レディ』のイライザを感じさせる場面がある。イライザは「偽上流階級」であり、ヴィクトリアは生まれ付いての上流階級である。そこの差がくっきりとすれば、もっと良い役に仕上がっていただろう。
石田純一は、随所に人柄を感じさせる直球の芝居だ。それに対して、中村梅雀が自由自在に変化球の芝居で勝負をし、この二人の夫は良いコンビになった。石田の名言、「不倫は文化である」を台詞に取りいれても、人柄だろうか、あざとくも嫌味にも聞こえない。舞台巧者とは言えないが、得な人柄だ。中村梅雀は、芝居の巧さは定評があるものの、ほんのわずか現代的な部分が足りないように思う。それは、芝居の中でごくたまに台詞が歌舞伎めくこととの関係もあるのだろう。
ヴィクトリアの母親・シャトルワース夫人が水野久美。デビューが1957年と言うから、芸歴57年の大ベテランだ。こういう役者が一枚噛んでいるだけで、安心感がある。
日本でもこうして繰り返し上演される洒落たコメディがほしいところだが、なかなか根付かないでいるのは残念だ。日本の演劇の歴史の中で、喜劇が軽んじられていた時代があったせいだろうか。また、最近は「お笑い」と「コメディ」の区別が付かない状況でもある。コメディは、緻密な計算を重ねて産みだす「すれ違い」が根本にあり、その場限りで観客を笑わせればよい、というものではない。それだけに、一本の良質な作品に仕上げるのに時間がかかる。そこを待てない、という状況もあるのだろうが、日本でもこうした作品が今後、どんどん生まれてほしいものだ。
カーテンコールの後、大地真央が出演者と共に、観客サービスだろうか、一曲歌う。あえて言うが、これはぶち壊しだ。ミュージカルで名を成した大地に期待するところはあるだろう。しかし、コメディの幕が降りた後、芝居の余韻を味わう時間がないのだ。カーテンコールが終わり、客席が明るくなったところで、今の芝居の場面を想い出しながら家路に着く。この余韻も含めてが芝居である。