森光子が、その女優人生を賭けて2017回にわたって演じた『放浪記』が、6年の歳月を経て、メンバーを一新し、北村文典の新しい演出でよみがえった。観客の中には、森光子の舞台がまだ鮮やかな人も多いだろうが、没後もこうして作品が受け継がれ、新しい生命を吹き込まれることを考えれば、日本の演劇の財産が残ったことになる。演出にも相当細かな検証の後が散見され、まず、全体のテンポが速くなった。以前の上演の折と比較をすると、休憩時間の短縮もあるが、全体で25分短くなり、3時間20分の上演時間である。細かな台詞をカットし、舞台転換の間に見せるスライドや文章も変わっている。人物の動きを大きくし、今までは動かずに芝居をしていた役に動きを与えるなど、全体的に躍動感のある舞台だ。
今回は、仲間由紀恵が林芙美子に挑戦。まだ、森光子の印象が強い中で、あえてこの役に挑戦する気概はたいしたもので、初演の割には良い出来だと言える。大詰の晩年の演技が年齢相応に老けられるか、と幕が開く前には危惧したが、そこも彼女の芝居で乗り切った。ともすれば、森光子が遺した大いなる遺産の芝居に引っ張られそうになる中で、懸命に「自分の林芙美子」を創ろうとする姿、好演である。林芙美子の強烈なまでの上昇志向と余りにも苛酷な人生が随所で感じられ、生々しい女性の姿が前面に出た。
今回の演出は、林芙美子という一人の女性の半世紀の側面と同時に、芙美子を囲む人々の人生をも同時に引っ張り出そうとする「群像劇」のような感覚がある。森光子の『放浪記』が苦難を乗り越えて栄光を勝ち取るまでの女性の半生記だとすれば、今回の『放浪記』は、大正末期から昭和にかけて、自分の可能性を信じて文学の世界で生きようとした若者たちの、辛く哀しい青春群像劇、と見ることもできる。作品の新しい解釈の一つであろう。
そのためか、芙美子のライバルである日夏京子(若村麻由美)、詩人の仲間の白坂五郎(羽場裕一)、アパートの住人で芙美子に好意を寄せる安岡(村田雄浩)、芙美子と一時結婚する詩人の福地貢(窪塚俊介)らが、芙美子の引き立て役に回るのではなく、程度の差はあれ苦悩を抱え、理想と現実のはざまに生きる人間としての実在感が増した。全員が初めて、という緊張感が巧く働いた部分もあるのだろう。
お金持ちのボンボンで、おっとりした雰囲気の白坂を演じる羽場裕一が良い。時折、以前演じた『マイ・フェア・レディ』のピッカリング大佐のような感覚がふと出て来るが、鷹揚とした感覚がはまり役だ。次いで、結核を病んでいる詩人の福地を演じている窪塚俊介も好演だ。ピリピリした病人の、狡猾さと嫉みがよく出ている。柄が役のイメージに似合っており、男の陰影が出た。以前は山本學が演じていた安岡が村田雄浩。最近、硬軟さまざまに役柄を広げているが、山本學とは違い、善意だけが前面に出ていないところにかえって人間臭さが感じられる。ライバルの日夏の若村麻由美、この役は、以前は奈良岡朋子が最も数多く演じ、池内淳子、黒柳徹子などが演じて来たが、そうした人ほどの強烈な個性はないのが残念だ。
仲間由紀恵が、この作品を森光子のように舞台のライフワークとすることができるかどうかは、今後の問題だろう。東京公演を終えた後、名古屋・大阪・福岡と、来年の1月末までこの芝居が続く。その過程でだんだんに練り上げられてゆくだろうが、少なくも、今後の再演を見据えた「覚悟」が見て取れた。この作品が、再演されるかどうか、は観客の評価次第だ。そこに仲間由紀恵の覚悟の結果が出るだろう。しかし、私はより練り上げての再演を観たい、と思う。