ギリシャ悲劇の『王女メディア』を1978年に平幹二朗が蜷川幸雄の演出、辻村寿三郎の衣装という異色の顔合わせで、日生劇場で初演をしてから38年が経った。その間、国内だけではなく、本国のギリシャはもとよりイタリア、フランス、アメリカ、カナダなどで上演を重ね、2012年には「一世一代」と銘打って全国各地50か所での公演を行った。しかし、その舞台が非常に優れていたために、昨年の9月、東京・立川を振り出しに、北海道から九州まで、今年の3月までかけて実に58か所で「一世一代、ふたたび」として12回目の公演を行っている。
役者が自分の得意とする演目や役を「一世一代」として演じるには、それ相応の大きな理由がある。年齢や体力の問題、時代、あるいは観客との関係、コンディション、長い年月の間に変わる共演者やスタッフ、その他の要素を総合した上で「この役を演じるのは今回で終わりにする」ということだ。この重大な決心をするまでも大変だが、その後、もう一度演じるには更なる勇気と努力を必要とする。最も素晴らしい状態で演じ納めるのが通例であり、それを超えることができるかどうかは、幕を開けて見なければわからない。今回にしても、前回の公演から3年の歳月が経過し、82歳の身体で半年に及ぶ全国巡演が過酷以上の物であることは言うまでもない。
しかし、各地の観客の熱望に応じて演じた「再び」の舞台には、ただ驚嘆、としか言いようがない。失礼を承知で言えば、3年前よりも確実に肉体は衰えているはずだ。しかし、前回の舞台よりも更に透明感を増し、いささかも衰えを感じさせない台詞の朗誦術には、ただ圧倒されるばかりだ。二人の子供まで設けながら他の若い女にうつつを抜かし、夫に捨てられる王女の復讐の炎は、若い時代の舞台が真っ赤に燃え盛る業火だとすれば、今回は青く揺らめく炎のようでもある。夫を演じている山口馬木也は、力強く折り目正しい芝居が魅力の一つだが、彼さえをも圧倒してしまうパワーは、凄まじいとしか言いようがない。衰えぬパワーに、情念の炎が色濃く加わった舞台になったと言える。これでこそ、「一世一代、ふたたび」の価値であり、できることなら三度でも四度でも観たいものだ。
先に、私は山口馬木也の役を「夫」と書いた。本来であれば、メディアの夫・イアソン(ないしはイアーソン)と書くべきだ。しかし、この台本は初演以来、詩人の高橋睦郎が修辞を行ったものを使っている。「修辞」とは、簡単に言えば原作の台本の言葉を活かしながら、日本語の言語感覚に限りなく近付けることだ。初演の1978年、ないしは2016年の我々日本人にとって、紀元前400年代、つまり今から2400年前のギリシャの人々や神々の名前や場所、人々の固有名詞の関係性を理解することは難しい。そこでつまずくことのないように、台詞を普遍的な物にした高橋睦郎の作業は、38年経った今も変わらずに通用する。これは、単に外国の言葉を日本語に置き換えた、という単純なものではなく、歌舞伎や人形浄瑠璃といった日本の古典芸能が持つ言葉の魅力を加えたもので、見事な日本版『王女メディア』になったのだ。
また、かつてのギリシャ悲劇のひそみにならい、登場人物は全員が男性である。主役の妻(メディア)をはじめ、乳母や町の婦人に至るまで、全員が「女形」ではない男性が演じるが、そこに違和感はない。むしろ、あえて地声で演じ、叫ぶ力強い平の言葉にふとした女性や母性を感じる。これが、38年間の『重み』でもあるのだ。演出も蜷川幸雄から昨年亡くなった高瀬久男に変わり、装置や衣装も変わった。だんだんにシンプルになることで、役者は衣装や装置の助けを借りずに、おのが肉体で観客と対峙することになる。そこで、役者の力量が問われることになるのだ。
領主の三浦浩一が、本来はもっと芝居ができるはずなのに、いささか生彩を欠いていたのが惜しい。女たちの頭を演じた若松武史が、独特の存在感を見せた。聞けば、今回の東京公演は長期にわたる巡演の半ばと聞いた。全国を「一世一代、ふたたび」との看板を掲げ、この芝居で行脚する平幹二朗のパワーには驚きを禁じ得ない。同時に、この俳優が長い歳月の中で重ねてきた芝居の深みを味わえる舞台だ。役者はただ「老いる」のではない。書で言えば、「にじみ」や「かすれ」のような味わいを加えて、深みを増すものだ。ここに、舞台の面白さがある。