ほとんどの場合、芝居のタイトルはその内容をある程度予想させるものだ。内容がわからないタイトルでは、観客の集客にも影響するし、観客も判断に困るからだ。しかし、美輪明宏へのオマージュである『MIWA』などのいくつかの例外を除いて、野田秀樹が創る芝居は、タイトルからではおよそ内容が予想できない。そればかりか、彼は観客に挑戦するかのように、プログラムにも、他の芝居のように「あらすじ」を載せていない。対談やコメントなどである程度の予想が付く場合もあるが、それもごく一部だ。
まるで、どこまで観客を裏切れるか、芝居の仕掛けに気付かせないようにするか、という「挑戦」を楽しんでいるかのようだ。
今回の芝居のタイトルは「逆鱗」と言う。
想像上の動物・龍の喉に逆さに生えている鱗であり、ここに触れると龍が激怒する、という程度の一般的な知識は私にもある。しかし、それが2時間15分の芝居の中でどう展開してゆくかは、まったくわからない。この仕掛けは役名にも反映されており、ある程度の想像は付くものの、そこ止まりだ。
松たか子の「NINGYO」、瑛太の「モガリ・サマヨウ」、阿部サダヲの「サキモリ・オモウ」、池田成志の「鵜飼綱元」、満島真之介の「イルカ・モノノウ」、銀粉蝶の「鰯ババア(逆八百比丘尼)」、井上真央に至っては「鵜飼ザコ」、野田秀樹は「柿本魚(さかな)麻呂」と、ふざけているとしか思えないが、芝居が進むに従って、その役名の意味が判然として来る。また、漢字に直すことで事前にある程度のイメージができるものもある。「サキモリ」は「防人」であろうし、「モガリ」は古代の葬送儀礼の「殯」であろう。
内容の細かな点に触れてしまうと、作者が仕掛けたネタを明かすことになる。隔靴掻痒の感はあるが、何も触れないのは批評としては不親切だろう。冒頭はある水族館が舞台で、松たか子は役名の通り人魚の役だ。そこに、人魚学なるものを研究している怪しい野田秀樹の柿本魚麻呂が登場する。いつものような怪しさ満載の幕開きだ。それが、幕切れになると、世界も光景も一転している。観客はいつの間にか完全に野田秀樹の術中に陥っているのだ。
芝居の後半、ある『仕掛け』の意味が明かされる。そこで、それまで観ていた芝居の風景や背景が一瞬にして変わる。この時、私は慄然とし、総毛立つような感覚を覚えた。もっと言えば、「頭の中はどうなっているのだ」という嫉妬さえ感じた。こういう経験は、滅多にあるものではない。批評家という、芝居を「見切る」ことが職分の一つでもある私が、知らぬ間に完全にその世界に引き込まれ、つゆ疑うことなく芝居のリズムの身を任せていたのに、いきなり足元を掬われたのだ。これ以上細かなことを書くと、作者の苦労に礼を欠くことになるので、ここまでにしておく。
60歳を迎えた野田秀樹の頭は、より先鋭化し、若い役者がその世界を理解することが難しいのでは、とも思えるが、おしなべて好演である。野田作品へは7年ぶりの出演になる松たか子が、パンチの効いた芝居の中にさりげない陰影を見せたのが良かった。彼女の台詞には「言葉の力」が宿っている。また、昨年、NHK大河ドラマの主演を演じた井上真央が、従来のイメージとは全く違った芝居を見せたのも印象に残る。男優陣では、『MIWA』以来の出演になる瑛太が、役者としての骨格が逞しくなった。初参加の満島真之介が、今後の新しい一面への期待を持たせたのも収穫だ。池田成志、阿部サダヲの二人は安心して観ていられるし、ベテラン・銀粉蝶も個性を活かした芝居が、違った色合いを添えている。
現実が創作を凌駕するほど慌ただしい時代にあって、まだこうした創作劇で驚かされる、という経験はそう得られるものではない。考えさせられることの多い芝居であると同時に、野田秀樹が持つ「言葉」の感覚や発想、歴史的な事象と演劇的なるものの結び付け方が、いかに豊かなものであるかを知る芝居でもある。