今の若い映画ファンには、戦争中に亡くなった「ジョン・バリモア」という二枚目の映画スターがいたことを知る人は少ないかもしれない。映画が無声映画から「トーキー」と呼ばれる科白が聞こえる物に変わった時代を生きた映画俳優であり、シェイクスピアの作品を演じる舞台俳優でもあった。晩年は、若い頃からのアルコール依存症が悪化し、50歳を過ぎた頃からは「忘れられた人」になり、60歳で孤独と貧困のうちに生涯を閉じた役者だ。四回の結婚をしたものの、家庭には恵まれず、俳優としても恵まれた生涯ではなかった。

 その、ジョン・バリモアの孤独な晩年の一日を切り取り、劇場の舞台でかつての当たり役だった『リチャード三世』のリハーサルをしている風景を見せるのがこの芝居だ。とは言え、舞台にいるのはバリモアを演じる無名塾の仲代達矢ただ一人。影から、もう科白がおぼつかないバリモアのためのプロンプターの声が聞こえるが、彼はカーテンコールまで姿を見せることはない。実質的には一人芝居だ。間もなく82歳になろうという仲代が、休憩を挟んで約1時間45分の一人芝居に挑む、というのは並大抵のことではなかっただろう。しかも、そこで演じられる内容は俳優の半生であり、アルコールでボロボロになりながらも、舞台に立つことを止めようとはしない、いやできない「役者の業」である。この姿を、劇団民藝の演出家・丹野郁弓は容赦なく炙り出す。

 ステージは輝かしいスポットライトを浴び、拍手と賞賛に包まれる役者とて一人の人間であることに変わりはない。自分が成した、あるいは挑んでいる仕事が多くの人々の眼に触れるかどうかの違いだ。金銭、名誉、女性に対する欲望もあれば、楽もしたい。ライバルに追い抜かれれば悔しいし、衰えゆく自分を一番リアルに感じつつも、決して認めたくはない。人間であれば、誰もがごく当然に持っている感情だ。しかし、こと役者の場合は、声優を除けばその姿を人に観られてはじめて仕事が成立する。ここに、葛藤がある。この葛藤は、バリモアだけではなく、すべての役者が持つものであり、この芝居を演じている仲代達矢とて、その呪縛から逃れることはできない。

 バリモアが過ごして来た波乱の半生と、何よりも一番人には「見られたくない」現在の姿を、作者のウィリアム・ルースは容赦なく描き出している。仲代達矢は、時にそれを笑いでごまかし、絶望的に嘆き、見えないプロンプターに当たり散らし、懇願し、と多彩な顔を見せ、バリモアの姿を我々に見せる。劇中では『リチャード三世』『ハムレット』などの科白も登場し、かつてシェイクスピア役者として名を馳せた片鱗を覗かせるが、結局、バリモア自身は満足にリハーサルを終えることはできない。幕切れ、バリモア家にはゆかりが深い、というリンゴを放り投げ、「もしイブがアダムにやったのが酒だったらなぁ、俺たちはまだエデンの楽園にいられたのに」と軽く言い放ち、引っ込むバリモアの科白は、とてつもなく重い。

 しかし、決して絶望的ではないのだ。誰しもが逃れることのできない「老い」に対する答えを、バリモアは持っている。「超高齢化社会」が問題になりつつある日本では、その一方で誰しもが当然のように長生きができると錯覚している部分もある。作者のウィリアム・ルースがこの作品を発表した時点で、日本の現在を予測していたわけはない。しかし、我々が「老い」とどう対峙するのか、舞台俳優の姿を借りて、観客に問い掛けているのだ。バリモアが舞台で見せる姿は、決して他人事ではない。