考えてみると、最近、ブレヒト(1898~1956)の舞台を目にする機会が一時に比べて減ったような感覚がある。20世紀の演劇史に大きな名前を刻んだ偉大なドイツの劇作家、ブレヒトの代表作の一つ、『肝っ玉おっ母と子供たち』に、84歳になる仲代達矢が無名塾の面々を率いて、能登演劇堂で29年ぶりに上演している。

 「能登演劇堂」は石川県・能登半島の七尾市中島町に位置し、1995年に開館した定員650人ほどの劇場だ。開館を遡ること10年前から、仲代が主宰する「無名塾」が合宿に訪れ、仲代夫妻がこの町の風景を気に入っていたこともあり、仲代達矢自らが舞台設計を監修した劇場だ。車で20分ほど走れば、北陸有数の温泉地・和倉温泉があり、双方の町おこしに一役も二役も買っている。「わざわざ能登まで芝居を…」と思う読者もおられるかもしれないが、この場所ならでは、の演出でなくては上演できない作品もあり、それを観るために、全国から駆け付ける観客も多い。

 先に種明かしをしてしまうと、舞台の壁が外に向かって開く。こうした構造を持った劇場は都内にもあるが、開いた向こうには、「山」が広がっており、季節や時間によっては山の冷気が客席に忍び込んで来る。この「空気感」は、この場所に立つこの劇場でなくては味わうことができないご馳走である。今回の『肝っ玉おっ母と子供たち』にしても幕が開くと、この壁が開き、山から商売道具の一切合切を積んだ荷車を引いた仲代のおっ母がやって来る。この時間はまだ明るく、綺麗な杉の木や草むらが見えている。三時間後、終演近くに再び開いた時は、辺りにはもう闇が迫り、その中を兵隊が行進してゆく。空気の温度は開幕時とは比べ物にならないほどに下がっている。視覚や聴覚だけではなく、五感で感じる芝居がこの場所では観られるのだ。

 さて、『肝っ玉おっ母』である。仲代達矢は母親・アンナを演じており、役柄の分類を厳密に言えば「女形」ということになろうか。しかし、この言葉が与えるようなイメージではなく、いつも通りの声で、女らしく見せる工夫など一切せずに「おっ母」を演じている。この芝居はそれでよく、またそうあるべきだろう。台詞を聴いていれば、そこには溢れるほどの母性があり、言葉は綺麗でなくとも、充分に母の気持ちが伝わる。1600年代にヨーロッパで起きた30年戦争の期間、1624年から1637年までの時間が作品の中で流れ、アンナはスウェーデン、ポーランド、イタリア、ドイツと荷車を引いてゆく。

 荷車には日用品と二人の男の子、一人の女の子までをも積み、戦火の中で商売をしながらあるく逞しさは、まさに「おっ母」という呼び名が相応しい。おっ母の三人の子供たちはそれぞれ父親が違うが、誰にも同様に深い愛情を注いでいる。
 しかし、その中で、長男、次男は相次いで徴兵され、次男は戦死、生き残った長男は、戦争が終わった時に農民を殺した罪で死刑になる。また、言葉が喋れない長女は、敵の襲来を知らせようとしたために射殺されてしまう。戦争を商売にして来たアンナは、三人の子供をすべて戦争で喪いながらも、一人で荷車を引いて、また商売へ向かう。

 この芝居は、声高に「反戦」を叫び、シュプレヒコールを上げるわけではない。しかし、次々に愛する我が子の命を失うアンナの台詞は、物言いは乱暴でも、そこはかとない哀しみが深く漂う。一見すると、アンナの行為は矛盾に満ちているようだ。すべての子を失った戦争を憎みながら、それを商売にしている。ここに、ブレヒトの観客に対する問い掛けがあるように思う。アンナは、ただ「可哀想なだけの母」ではない。矛盾しようが二律背反であろうが、「自分も生きねばならない」という現実が眼の前にある。そのためには、自分の子供たちを奪った憎い戦争であろうが、飯の種にしなくてはならない、という現実だ。しかし、その現実が幸福なわけでも豊かなわけでもないことは、観客にはわかる。「私は戦争の犠牲者だ」と叫ばずに、哀しみを心の中にしまい込み、荷車を引く「おっ母」の姿に何を感じるか、ブレヒトが描いた「宿題」は重い。