まもなく、72回目の終戦記念日を迎える。私のように戦争を知らない世代でも、まだ戦争体験者の声を聴くことが辛うじてできる。しかし、後20年後に、それが可能かどうか。生の声、ではなくとも、戦争の悲惨な体験や経験を作品にしたものは多数あり、それに触れることで、自分なりに戦争について考えることは100年先、200年先でも可能だ。
日本の文学作品において、戦争を描いたものは数えきれないほどにある。その中でも、映画化もされた井伏鱒二の『黒い雨』は十指に入る名作だろう。広島に原爆が投下され、その影響で放射能物質を多量に含んだ黒い雨が降った。その凄まじい光景は、私の貧困な想像力を遥かに上回るものであったろう。しかし、その「黒い雨」に苦しんだ人々は大勢いる。その一人、「矢須子」を、87歳の奈良岡朋子が「朗読」の形式で各地で公演している。7月6日に埼玉県・川越市で幕を開けたこの公演は、北陸・関西・九州・東北・関東を経て8月12日の旧盆まで続く。
舞台中央に、大きめの一人掛けの椅子とテーブル。舞台下手から登場した奈良岡は、テーブルの本を取り上げ、淡々と物語を読み進める。1時間10分ほどだろうか。その間、登場人物の特定の誰かや、主人公の矢須子に特別な感情を移入するわけではない。ただ、ひたすらに、適度な間とイキで本を読んでゆくだけだ。しかし、聴いている我々の脳裏には、奈良岡が読む「ことば」が、映像となってイメージできるばかりか、むせ返るような暑さなどの感覚が、五感に伝わって来る。大袈裟な言い方をすれば、これが「芸の力」なのだ。昨今、舞台制作に掛かる費用が少なくて済むことから、朗読劇が流行していることはすでにあちこちで書いている。その中で、「簡単な仕掛けだけに難しい」ことも同様に述べた。「台詞」ではないだけに、役者の力量がそのまま観客にぶつけられるからだ。これは、役者に相当の技量と同様の覚悟を求められるもので、卑俗な例えをすれば役者は裸で舞台に立っているようなものだ。朗読劇の本質を知ってか知らずか、「朗読劇」とは言えないものまでも溢れ返る玉石混交の中で、「ことばを読む」ことの力を、奈良岡はたった一人で数百人の観客を前に、見事に体感させた。
これこそ、年功の成せる技であり、まさに「語り芸」である。台詞術では定評のあった瀧澤修、朗読の名手と呼ばれた宇野重吉らの先輩に鍛えられて、劇団民藝の芸脈はこうして健在な光を放っている。例年を超える猛暑の中、劇団民藝の「暑い夏」はまだ続く。