この芝居の作者・山谷典子は30代後半の女性で、文学座の女優でもある。また、自ら演劇集団「Ring-Bong」を立ち上げ、主宰・劇作・出演を行っている、何ともパワフルな女優だ。そんな女性がタイトルを一見しただけでは内容が想像できない芝居でこだわっているのが「戦争」だ。もちろん、彼女は戦争を知らない世代である。しかし、彼女が祖父母の世代から見聞きしたことは、まだ生々しさを失うことなく残っており、そこへ現代の「戦争」とも言える原子力の問題を絡めた作品だ。私も、作者も当然ながら戦争を知らない世代だ。しかし、「東日本大震災」を機にまだ収束の見通しがつかない原発の問題は、我々の世代にとって、ある意味での戦争ではないか、と私は考えている。そうした感覚を、若い世代の作家が肌で感じ、先の大戦との共通項を見つけて一本の芝居にまとめた、という点では観客として共感できる。
都内にある歴史博物館に毎日訪れる老人。飽きることなく開館から閉館までを博物館で送る老人は、従業員の間でも話題になっている。終幕近くに、その理由を語り出すのだが、それまでの間は、戦争中や戦後の闇市、昭和63年の静岡の原子力館などを、場面を変えずに時代が行き来する。そこで語られるのは、戦争の忌まわしい記憶だけではなく、戦後も形を変えて我々の前に現われる戦争のような生活である。この老人・静雄を演じているのが加藤健一。衣装を変えずに75歳の現在、戦争中の7歳、戦後の8歳、昭和63年の50歳を演じ分ける。形にこだわることなく自由に時代をタイムスリップさせる柔軟な筆も面白いが、演じる加藤健一にも不自然さがない。なぜなら、その少年時代や壮年期は、実際に経験してきた事柄ではあるが、老人の頭の中で起きている「回想」でもあるからだ。ただ、演じる方としては順番が関係なく年齢が変わるので、そこが難しいだろう。もっとも、それが観客には新鮮な驚きをもって迎えられるのだ。
少人数の作品を選ぶ傾向が多い加藤健一事務所にしては珍しく、この芝居には12人の役者が登場する。静雄のおば・たかを演じる伊東由美子の確かな存在感と逞しい母性が好演である。もう一人、盲目の傷痍軍人・外村の高野絹也のすべてを見透かしたような明るさが、逆に哀れを誘う。平成と元号が変わってもう26年になり、来年は終戦後70年を迎える。私が子供の頃には、新宿駅の西口と東口を結ぶ汚いトンネルで傷痍軍人をよく見かけたものだが、そうしたことどもがどんどん遠く微かな記憶になりつつある。これが「風化」なのだ。戦争も原爆も、東日本大震災も、「風化」させてはいけないと叫ぶ人は多い。それは真実だ。一方、日々の暮らしの中で、大事なことの多くを忘れ、風化させてしまう我々の姿もまた事実である。そうならないために、こうして芝居の中で、その当時を生きていない年代の人々によって想像の翼を広げることに、意味があるのだ。もう後数年か十年もすれば、戦争経験者が演じる芝居や書く芝居が観られなくなる、という厳しい現実がすぐそこまで来ている。その中で、風化を防ぐには、形式はどうあれ「語り継ぐ」しかない。休憩なしの2時間の芝居を通して、加藤健一が演じる静雄の幼少から老年期までの人生を、戦争というキーワードと共に語り聞かされているような気がする。そんな芝居だ。