幕が開いて2分後には、主な登場人物である兄弟が、猛烈な勢いで喧嘩をしている。その言葉は下品で薄汚く、世間一般の常識に照らし合わせても、わざわざ罵り合いをするほどの問題でもない。しかも、二人はたった今、父の葬儀を終えて家に帰ったばかりなのだ。神父が慌てて仲裁に入るものの、ハエが止まったほどにも感じていない。

ロンドン生まれのアイルランド人であるマーティン・マクドナーの『ロンサム・ウエスト』。兄のコールマン(堤真一)、弟のヴァレン(瑛太)、ウェルシュ神父(北村有起哉)、近所の女の子、ガーリーン(木下あかり)。登場人物はこの四人だけの一幕物の芝居だ。アイルランドの片田舎を舞台に、決して裕福とは思えない兄弟が、きっかけを探しては取っ組み合い、罵り合い、喧嘩ばかりしている。たまに、一陣の風が吹き抜けるように、二人の生活に彩りを与えているのがガーリーンだ。神父は二人のために何を説いても、自分の無力感に、兄弟と一緒になって酒に溺れている始末。この兄弟は何を考えて生きているのだろうか。「いかにして、一瞬でも相手より優位に立つか」だ。こんなバカげた話はあるまい、と芝居を眺めていると、戯曲の持つ力に引き込まれてゆく…。

堤と瑛太の丁々発止のやり取りが面白い。特に、芝居の後半になり、一旦は考えを改めたか、に見える二人がまた言い合いを始める辺りは、絶妙の間で見せる。よくもこれだけ汚い言葉を、と思えるほどの科白が速射砲のように狭い家の中を飛び交っている感覚だ。無力で愚痴ばかりこぼし、真面目なくせにか、そのゆえにかアルコールに溺れ、やがて絶望して死を選ぶ北村の神父が、二人のコンビを陽とすれば陰の役割を果たし、芝居の中でのよい対照になっている。木下のガーリーンは、天真爛漫な少女のように見えるが、この人心が荒れ果てた村の中で「生きる」ことの意味がどういうことであるかを知っている。

芝居の中には、時折ハッとさせられる科白に出くわすことがある。私はこれを「科白が利いている」と表現するが、この芝居の中で、毎日飽かずに喧嘩を繰り返す二人が、その理由を「相手のことを気にしてるからだ」と言う。二人とも、殺したいほど憎い相手でありながら、どちらかがこの家を出てゆくのがたまらなく恐ろしく、寂しいのだ。「喧嘩するほど仲がいい」という諺の範疇を超えているかもしれない二人だが、この一言は言い得て妙だ。どんな相手でも、一人でいる孤独を乗り越えさせてくれるのだ、という人間讃歌でもある。とは言え、二人の生活ぶりや行動はお世辞にも褒められたものではない。しかし、その分、人間くささがプンプンしている。現代の我々が、「良識」や「常識」の名のもとに心の奥底にしまい、浮かび上がって来ないようにしている「生の感情」のままに生きているからだ。「呑みたいから呑む」。誰の酒であろうが、何時であろうが関係ない。今、呑みたいのだ。考えようによっては羨ましいとも言える。しかし、この生活が本当に幸せであるかどうか、と言えば、誰もがそうは思わないだろう。

演出の小川絵梨子が、こうした感情の深奥に潜むものを丁寧に舞台の上に炙り出している。最近、若い演出家の中には、芝居の骨法をきちんとわきまえ、誠実に仕事をする人が増えて来たような気がする。彼女もその一人だろう。突き詰めると、面白い芝居に欠かせないほ¥ものは、一に脚本、二に役者、三に演出、そして観客なのだ。