歌舞伎では、作品の構造を現わすために、「世界」という言葉を使う。みんなが良く知る過去の物語や事件を素材にし、これを大きな骨組みとして芝居を組み立ててゆく。この素材になるものが「世界」だ。例えて言えば「平家物語」であり「太平記」だ。そこに、作者ならではのアイディアである「趣向」を加え、今の言葉で言えばいかに「オリジナリティ」を出すか、今までにない面白さを見せるか、が作者の腕だ。

誰もが知るイギリスの名作の名を借りたこの芝居は、『ジキル博士とハイド氏』の「世界」に、三谷幸喜の「趣向」がたっぷり盛り込まれた、まぎれもない「新作歌舞伎」だと言える。多くの人々が少年少女時代に、子供向けに翻訳されたものや抄訳された形で読んだか、あるいは粗筋だけは何となく知っているが、詳しくは忘れた、というところだろう。イギリスの作家・スティーヴンソンの名作『ジキル博士とハイド氏』が置かれている現在の微妙な立場に眼を付けた三谷幸喜の着眼点の鋭さだ。飲めば人格が変わるという薬を開発するジキル博士を、今、向かうところ敵なしの勢いがある片岡愛之助が演じ、ハイド氏を藤井隆、ジキルのフィアンセ・イブを優香、ジキルの助手・プールを迫田孝也と、四人の登場人物しかいない。

休憩なしの1時間45分、後半は全くのスラップスティック・コメディとなる。前半の展開から一挙にスピードアップし、役者は舞台の上を駆け回っているような状態だ。愛之助と藤井隆という組み合わせの妙も面白いが、西洋の紳士であるジキル博士を演じている愛之助に、あえて歌舞伎調で科白を言わせたり、薬を呑んで人格が変わったイブの動きに歌舞伎の舞踊の動きが取り入れられていたり、と、作者のいたずら心があちこちに散りばめられている。愛之助が大ブレイクしたきっかけの一つになったドラマでの「オネエ口調」も、不自然にならない展開の中でうまく登場させ、爆笑を誘う。こうした、他のヒット作品や役柄からの「頂き!」も、まさに歌舞伎の発想であり、どこにもそうは書いていないが、やはり「新作歌舞伎」にしか見えない。ここまで弾けることができるのは、「歌舞伎座」という伝統の呪縛でがんじがらめにされた空間に関係のない劇場で演じているからであり、これを歌舞伎座で上演したら、ここまで観客は沸かなかっただろう。歌舞伎座で上演する新作歌舞伎よりも他の劇場のそれの方が圧倒的に面白いのは、関係者の多くが無意識に抱えているこの「呪縛」の問題が影響しているからに他ならない。

そういう意味で言えば、この芝居は、昔の歌舞伎の精神に立ち返った「何でもあり」、の面白さなのだ。藤井隆が汗だくになって舞台を駆け回り、それを追い回すようにドタバタと二人が芝居をするその絶妙な掛け合いの面白さと、助手でありながら、他の三人をいいように操り、一人でほくそ笑んでいるような迫田孝也の醸し出す雰囲気が絶妙だ。優香も、完全に開き直って弾けている部分があり、それぞれの役者の個性を巧みに引き出し、楽しい芝居になった。舞台の裏で邪魔にならないように効果を上げている生演奏も贅沢だ。日本ではなかなか上質のコメディが生まれにくい土壌があるが、嬉しいことに最近はかなり増えて来た。観客の指向もそちらを向いている時がしばしばある。劇場でしんみり何かを考え、ドラマに感動することも魅力なら、どうでもいいようなバカバカしいやり取りに腹を抱えて笑うのもまた、芝居の魅力だ。この芝居、役者が弾け切れたこと、この顔ぶれだからこそ成立したところに成功の要因がある。誰か一人でも違っていたら、この成果は上がらなかっただろう。作者の「笑うだけ笑って、後には何も残らない」という作品の主題は、再演を想定していないところにあるのかもしれない。