劇団民藝の、昨年の『夏・南方のローマンス』に続く木下順二作品である。1960年代の半ばに近い夏の夜に、応接間で年に一度家族三世代が揃って開かれる「宴」。祖父は昭和天皇と共に、戦争の後始末に尽力した元・内務官僚。父は、かつては左翼思想を持ち、投獄された経験もあるが「転向」した後に、自動車産業を成功させ、今や大企業の社長である。息子は父の会社で働いている。この三世代の男たちを中心に、それぞれの連れ合いや恋人、友人などが一夜の「宴」の中で語り、明らかになる問題とは…。出演者が圧倒的に多い男の芝居を、『夏・南方のローマンス』に続いて丹野郁弓が演出している。

この作品は、三世代にわたる家族劇と観ることもできるし、三世代にわたる思想の歴史と観ることもできる。戦時中の治安維持法で投獄された父の若き日の姿は、そのまま祖父にも、息子にも重なる。家族劇としてみれば、期待されながらも何かと問題を抱える息子・一郎と父、父と祖父は常にお互いに反逆し合っている。これはどこの家にもあることで、特に男が世代交替をしようとする時の家庭ではしばしば観られる場面だ。この二つの側面を描きながら、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』のように、過去と現在を行き来しながら芝居は進んでゆく。三世代の時間の経過を、「応接間」という空間を動かすことなく、自在に行きつ戻りつしながら進む手法は、今となっては逆に斬新にも見える。

丹野演出は、男たちを中心とした家族が織り成すドラマを、家族劇、思想劇のどちらの側面からも見られるような丹念さがある。その一方で、男の心理や行動を、時にぶっきらぼうなまでに読み切っての演出は、今までにはない味だ。奈良岡朋子や日色ともゑ、樫山文枝など、女優陣を中心に据えた芝居の演出が多いこともあるのだろうが、丹野郁弓の演出にここまで男っぽさがあるとは、変な褒め方だが感心した。

時代は繰り返す、と言うが、今から約50年前の時代設定のこの芝居は、今の時代にぴたりと符号するものがいくつもある。治安維持法を特定秘密保護法に、朝鮮特需をバブルに置き換えれば、何もおかしくはない。それは否定しないが、ここに問題が一つある。治安維持法にまつわるさまざまな社会の動きがどういうものであったのか、「昭和史」の教育をまともに受けていない世代には分からない、ということだ。しかし、木下順二の芝居はこうしたことを平然と突きつける図太さと強さがある。事実や事件を知っているかどうか、という表層的な問題にとどまらずに、考えることを止めてしまい、口当たりの良い芝居しか創らなくなっている演劇人に対して「それで良いのか」と、鋭利な刃物を当てられたような気がするのだ。

役者のことを書いておく。父の膨大な科白と格闘した西川明と、同様に若き日の父と長男の一郎の二役を演じた齊藤隆史の健闘を讃えたい。母の箕浦康子が時折見せる陰影の中の強さ、これもベテランのなせる技だ。朝鮮人を演じた天津民生、役者における肉体の重要性を再認識させた点が評価できる。

時代は容赦なく移ろう。人々も同様だ。伝統は破壊され、新しい伝統を生む。だからこそ、時代の断片を演劇という形式で残しておき、それを次の時代に問い掛ける行為が必要なのだ。芝居は娯楽なのだから、そんなに難しいことを考えずに、笑って観ていれば良いのだ、という考え方もあり、それを否定するものではない。しかし、それだけではない。また、こういう作品だけでもない。その幅の広さが演劇の魅力の一つでもある。

「あなたはこの芝居を、この時代をどう感じますか、そしてどう考えますか」。『白い夜の宴』のメニューに密やかに仕込まれた毒は、後からジワジワ効いて来るタイプのようだ。