「イヌビト(犬人)」 2020.08.07 新国立劇場
8月に入り、東京の1,000人規模の劇場でも「ソーシャル・ディスタンス」や「三密」などに「新型コロナウイルス」の感染防止に配慮した「新生活様式」の中で、舞台の再開が増えて来た。
この「イヌビト」は、作・演出・出演も兼ねる長塚圭史が、まさに「今の時代」を切り取って、そのありようを観客に問い掛ける意味も込めて書いた作品だ。松たか子、首藤康之、近藤良平らを中心に、「大人も子供も楽しめるシリーズ」の中の一作として新国立劇場が制作したものになる。上演時間は1時間20分、客席も1席おきの配慮がなされ、消毒や検温などの措置もされている。今月再開した歌舞伎座と同様に、できる限りの配慮や対策を講じ、出演者も「フェイスシールド」と呼ばれる透明の薄いシートを付け、台詞による飛沫の拡散を防ぐなどの努力をしている。
8月5日に初日を迎えるには、その数か月前、今よりも我々が遥かに「新型コロナウイルス」に関する情報が少なく、恐怖や不安、生活のストレスに曝されている中での上演決定、原稿執筆、稽古などの作業を経て来たことになる。この英断を下した新国立劇場の演劇芸術監督である小川絵梨子をはじめ、関係者諸氏には敬意を表したい。
物語は、架空の町での出来事。30年前に狂犬病が流行り、犬を飼うことが禁じられている。そこへ、その事を知らずにペットの犬と共に引っ越して新生活を始めようとした首藤康之、島地保武、西山友貴が演じる「タナカ」家の家族。しかし、町の人々はみんなマスクをし、「ソーシャル・ディスタンス」を保ちながら、どこかピリピリした気配で暮らしている。「イヌビト病」という病気が流行り始め、それが変容を遂げて「ヒト」から「ヒト」へ感染することが分かったからだ。やがて、「タナカ家」が犬を飼っていることが町の人々に知られてしまう…。
この舞台が描いている世界は、まさに「現在の日本の一断面」である。批判は承知の上だが、訳の分からない「自粛警察」なる人々まで現われ、身体的・精神的な理由などでマスクが着用な出来ない人々の理由など一切斟酌せずに過剰な反応や攻撃を示す一方、確かな根拠のない噂が流布し、政府と各自治体の意見が食い違うこともしばしばだ。
そうした混乱も手伝った上だが、「新型コロナウイルス」が最初のピークを迎えようとしていた3月から4月にかけて「マスク」の争奪戦のニュースが連日報道された。そこには、もう半世紀近く前になろうという1970年代の「オイルショック」の折、当時不足していたトイレット・ペーパーの買い溜めに群がる人々と全く変わらぬ姿があった。「今回は命がかかっているのだ」と言われればそれまでだが、半世紀を経て、我々日本人の「我欲」がどれほどに強まったかをまざまざと見せ付けられ、恥ずかしい想いをしたのは否定できない。
先日、それまで「新型コロナウイルス」の感染者「ゼロ」を保っていた岩手県で感染者が発生した。その折には、いわれのない誹謗中傷が殺到し、さながら「中世の魔女狩り」のような現象が起きたのも周知の事実である。1,200万人が住む東京からは、他府県への移動はなるべく控えよとのお達しも出ている。タイミングの悪いことに、お盆休みにぶつかり、年に一度の帰郷がこうした故のない一方的な断罪にあっている。故郷へ帰りはしたものの、東京から来たと分かっただけで「帰れ!」と貼り紙をされるような想いをするのであれば、こういう舞台を観ていた方が、精神衛生上も遥かに良いだろう。
生活様式の変化で、犬に限らず、猫やその他の小動物を家族のように慈しむ人々が増えた。その背景に何があるのかはともかく、この作品には、愛犬家や動物愛好家が観たら許せない感覚もあるかもしれない。しかし、それだけではなく、「人に移してはいけない」「感染の防止に努めなくては」という大人としての常識や正義感以前に、「私だけはかかりたくない」という個人的な想いも同時に描かれている。
未知の「見えない」ウイルスだけに、誰もが怖いのは当然だ。しかし、「正しく恐れよ」という言葉もある。「イヌビト」が描いているのは明らかに異常な世界であり、観客に「今回の事態を『正しく恐れているのですか?』『その方法は正しいのでしょうか?』」という疑問を投げ掛け、自問自答する機会を与えているように思える。
「新型コロナウイルス」が流行り始め、多くの産業が「自粛」や顧客の減少で大打撃を被った。その際に、演劇人が「文化の灯を絶やさないように」とのお願いの声明や文書を発信したが、「不要不急だ」「他の産業も同様だ」とヒステリックなまでに一蹴された。しかし、あれから数か月を経て、細かな配慮の元に今、演劇は立ち上がり、復活を遂げ始めた。
その間に、インターネットを利用した無観客公演の「リモート」での配信や中継など、新しい形態も定着しつつある。その中で、演劇は決して「不要不急」なものではなく、キチンとした時代へのメッセージを発し、問い掛けることができる「文化」であり、「不要不急」ではないことを示した今回の公演に意義は大きい。