歌舞伎座の第一部は『勧進帳』のキャストを変えて、A日程とB日程で上演されている。B日程は、弁慶が松本幸四郎、富樫が尾上松也での『勧進帳』だ。中村雀右衛門の義経は変更なし。『勧進帳』の前に『小鍛冶』が上演されるが、これは「A日程」の劇評で述べたので今回は触れない。

 幸四郎の弁慶は2014年に初演して以来、今回で5回目となる。2018年に十代目幸四郎を襲名して以降、つとに感じていることだが芝居がグンと安定感と重厚感を増した。特に、低音の科白から出る重厚感はそのまま弁慶の風格と背負っている感情の「重み」の表現にも重なる。その上で、情理を弁え、堂々と松也の富樫に対峙している。父・松本白鸚の弁慶とは、親子ながら当然いろいろな点が違うのは当然のことで、動きも大きく派手やかである。わかりやすい点での大きな違いは、幸四郎が弁慶を演じるB日程では、幕切れ近くに「滝流し」を入れていることだ。これは演者により入れる場合や入れない場合があり、こういう点は歌舞伎の自由度の高さであろう。

 幕が閉まり、見せ場の飛び六法にかかる。その前に、白鸚は深々と観客席の方面に頭を下げる。幸四郎は、想いを込めてわずかに下げ、すぐに揚幕に姿勢を変える。この違いは、弁慶の「引っ込み」の演者による解釈の差がよくわかり面白い。多くの演者が白鸚のような形で客席に頭を下げている。これは、観客への敬意とお礼の意味だろう。幸四郎の場合は、そうした気持ちを持ちながらも、間髪を入れず義経一行の後を追おうとするように見える。こういうところが芝居の楽しみで、観客はいかようにも解釈が可能だ、ということだ。

 幸四郎を襲名して以降、ぐんぐんと芸容が大きくなり、役によっては貫禄も備わってきた。ちょうど俳優として油の乗っている年代の演技で、心技体が足並みを揃えはじめた感がある。そう簡単にすべてが揃うものではないのは百も承知だが、この世代の中では、最も速くこの地点に到達しているのではないか。それは、「コロナ禍」で舞台が開かなかった時期の精力的な行動を観てもわかる。

 対する松也の弁慶、今回が初役である。想像を上回る出来で、科白の調子もよく、メリハリが効いている。幸四郎の次の世代の歌舞伎俳優として、テレビなどでの活躍も盛んだが、こうした大舞台での芝居を観られるのは嬉しいものだ。恒例のお正月の浅草公会堂での若手の歌舞伎で実力を蓄えてきた結果が出ているのだろう。さすがに、まだ幸四郎に伍してとまでは言えないものの、初役としては上々である。

 今月は第三部で片岡仁左衛門・坂東玉三郎の人気コンビによる『桜姫東文章』の前半部分が「上」として演じられ、そちらも好評を博している。その最中、25日からの「緊急事態宣言」の発出によって、千秋楽の28日までが上演中止となった。白鸚の弁慶は23日、幸四郎は24日の弁慶が最後となり、二人ともに二回ずつの舞台を残して公演が終わってしまったのは何とも残念なことだ。

 今月の『勧進帳』は親子が日替わりで弁慶を演じるだけではなく、本公演での弁慶では史上最年長となる白鸚の弁慶、松也が初役で挑む富樫など見どころも多く、成果も高かっただけに、残り四日とは言え残念なことだ。未知の感染症が猛威を奮っている最中に、命を賭けて芝居を観にきてくださいとは言えないのは当然だが、歌舞伎も念入りな手続きや段階を踏みながらようやくここまでの上演が可能になった。またもほかの舞台芸術同様、あるはそれ以上の苦しみに置かれるのは何とも言い難い。

 一日も早くコロナ禍の収束、平穏な日常を望むばかりだが、こうした批評がいつまで書けるのか、それも他人事ではなくなってきたようだ。