今年創立80年を迎えた劇団「文化座」。和暦で言えば昭和17年、戦争真っ最中に誕生した劇団である。創立メンバーの一人でのちに代表を務めた鈴木光枝から、息女の佐々木愛に引き継がれ、他の劇団にはない味わいを持った作品を提供し続けている姿勢は貴重だ。

 乃南アサの同名小説を原作に、2017年に初演された『しゃぼん玉』、今回が再演となる。タイトルの意味は、主人公の半グレのような青年が、世の中を行き当たりばったりに生きる姿が、ふわふわと漂っている様子を象徴したものだ。香川県の三分の一の面積を持つとされる宮崎県の椎葉村(しいばそん)。藤原章寛演じる伊豆見翔人は、かっぱらいや暴行などを繰り返し、あちこちを彷徨う生活を繰り返しながら、ヒッチハイクしたトラックの運転手を脅し、夜中に車から放り出される。気が付くと、転がったバイクの傍に怪我をした老女・椎葉スマ(佐々木愛)が横たわっており、病院へ連れて行き、スマの家に転がり込んで、年の離れた二人の共同生活が始まる。村の人々は、翔人をスマの孫だと勘違いし、歓迎ムードだが、やがて二人が抱え、心の中にしまっていた問題が浮かび上がる…。

 椎葉村には平家の落人伝説が残っている。こうした場所は全国各地にあるが、珍しいのは源氏方の那須与一の弟が平家を探索に来たものの、そのままこの地に住み付き、平氏と婚姻し、村の人々には平氏と源氏の双方の血が流れている、という点だ。毎年、故事を偲ぶ祭りが行われ、多くの観光客を集めるという。劇中、山深く美しい村の風景や祭りの様子の映像などが挟まれ、それが非常に効果的だ。天孫降臨の地・高千穂から車で1時間半という秘境であることは間違いなく、広大な村のほとんどは山林が占め、人口も2,500人に満たない。しかし、思わず出掛けたくなるような懐かしい風景があり、温かな人々がいる。その村の人々がそのまま舞台にいるような感覚を与えるのは、文化座の「訛り」の巧さだろう。今年上演した『命(ぬち)どぅ宝』は沖縄が舞台で、文化座の芝居を観ると方言の巧さをつくづく感じる。

 こうした「土臭い」芝居に力を発揮するのは文化座の伝統の一つとも言うべきもので、鈴木光枝の『おりき』をはじめ、『サンダカン八番娼館』、『瞽女(ごぜ)さ、きてくんない』など、各地方で逞しく生きる庶民の姿を活写することに非常に長けている。この『しゃぼん玉』も、その線上に並ぶ作品であると同時に、佐々木の母、鈴木光枝が当たり役にした『おりき』の佐々木愛版、とも言えるものだ。

 89歳の老婆・スマを演じる佐々木の懐の深さと温もりは、観客の心を豊かにする。折々に高らかな笑い声を聴かせるが、この独特の「笑い」は、人生の悦びや哀しみなどの多くの感情を長い歳月の中で消化してきた、誰にも真似のできない、一つの芸として確立された笑いで、椎葉村の大地にしっかり根を張った大樹のような感覚がある。ふとした仕草や言葉の端々に「温もり」を感じさせる演技は、彼女の大きな母性を感じさせる愛情に溢れている。

 対する藤原の翔人、今時の若者の一つの姿を丁寧に演じ、荒み切った心が徐々にほぐれ、村人に馴染んでゆく様子を丁寧に演じて見せる。2020年1月、「新型コロナウイルス」が流行し始め、世間はパニックになり、続々と舞台が中止になった。その折に、劇場がクローズする寸前に観たのが、彼が演じた『炎の人』で、三好十郎の手によるこの作品は、劇団の財産演目でもある。その折に、若いながら巧みな役者だと感じたが、それ以降の2年余りを無為に過ごしていたわけではない成長の跡が観られたのは嬉しいことだ。大ベテランと次の時代を担う若手が、同じ舞台で共演できるのは、劇団という仕組みならではで、先輩たちの教えを素直に吸収した結果だろう。

 この二人を青木和宣、津田二朗らベテラン勢をはじめ、小川沙織、兼元菜見子、田中孝征などの若手も加わり、チームとしてぴったり息の合った芝居を見せる。ここに、80年の歳月を重ねた劇団の強みが現われ、まとまりの良い芝居になった。

 自分が生まれ育った土地を慈しみ、過大な要求をせずに自然と折り合いながら生きる人々の姿は、時間に追われ齷齪と慌ただしく生きる都市部の人に大らかなメッセージを伝えてくれると共に、便利な機器に囲まれた生活よりも大事なものがあることを改めて教えてくれる作品だ。