「双蝶々曲輪日記」(ふたつちょうちょうくるわにっき)

 「角力場」と「引窓」はよく上演される人気演目だが、それ以外の場面はなかなか観る機会がない。しかし、今回のように普段は上演されない場面を「通し狂言」のような形で上演すると、今までの上演方法でははっきりしなかった人物や事件の関係がより鮮明になることがある。その一方で、長い演目の場合は、どこに力点を置いて見せるかが問われることになる。その点で言えば、今回は濡髪長五郎を中心に据え、回りの人間関係をくっきり描く脚本の補綴の仕方が、分かりやすくなった成功例だと言えよう。

 江戸時代の庶民の人気の的だった「相撲取り」を主人公に据えた芝居は他にも何本かあるが、やはりこの「双蝶々」が一番の人気作品だろう。プロの相撲取りの濡髪長五郎と、それに挑む放駒長吉とが肉薄する「角力場」、濡髪が犯した殺人事件を、継母に対する義理で見なかったことにし、逃がそうとする「引窓」を中心に、この二つの名場面が浮き立つような構成になった。濡髪を松本幸四郎、放駒長吉、若旦那の山崎与五郎、南与兵衛の三役を市川染五郎が三役早替わりで見せる親子競演だ。それに加えて、中村芝雀、市川高麗蔵、中村魁春、中村東蔵らのメンバーである。

 幸四郎の濡髪は、関取らしい貫録が充分で、「角力場」ではその容姿だけではなく、迫力が良い。芝居が「引窓」まで進むと、母親の前で自らの罪に苦悩し、逃げようか自首しようかと悩む、身体は大きさとは裏腹に心の繊細な葛藤を見せる。科白の緩急のツボが巧くはまり、グイグイと観客を引き込む力がある。一方、染五郎は三役早替わりと大奮闘で、珍しい序幕の「新清水」で宙乗りまで見せるサービスぶりだが、「角力場」で見せる若旦那の与五郎が良い。俗に「つっころばし」と呼ばれる、突かれたらすぐに転びそうな「金と力のない色男」ぶりに工夫がある。細かな点を言えば、常に親指を隠している手の動きに若旦那の柔らかな色気が見える。こうした工夫が、役者を育てるのだろう。「引窓」の南与兵衛も、持ち前の科白の良さが活きて、分別も出て来て、情がこもっているのは良いことだ。

 この「引窓」は、実子でありながら罪を犯した濡髪長五郎と、継子ではあるが夫の後を継ぎ、村の代官となった南与兵衛の間に挟まり、苦悩する母親・お幸の悲劇でもある。最近、こうした老婆を演じる役者が少なくなり、東蔵が一手に引き受けている感がある。それ自体は悪くないのだが、バタバタと派手に動き過ぎ、苦悩のありったけを動きと科白で説明的に見せてしまう。余りに大車輪で芝居をするので、内心の葛藤や出来の悪い実子と出来の良い継子に対する義理のせめぎ合いなど、辛い老母の悩みが伝わって来ない。ここは、やたらに元気な老婆ではなく、心の中での苦悩が爆発し、理性が感情に負けた点で観客の共感を得るべきで、最初からああ騒いでしまっては、こちらが共鳴している暇がない。ベテランなのだから、もう少し芝居の緩急で見せる工夫がほしかった。元は遊女でありながら、その頃からの馴染みで今は晴れて与兵衛の女房になった芝雀のお早がいつまでも若々しく、一軒の家で起きる悲劇に花を添えている。

 歌舞伎が賑やかな力を持っている今、過去の名作をどう見せるか、というのは今後の大きな課題である。その中の一つの方法が「通し狂言」で、国立劇場はそれを目的に多くの作品を上演し、名舞台も残して来た。今後、これからの観客を見据えつつ、過去の舞台を参考に、「古い革袋に新しい酒を」注ぎ込むのも、大きな宿題だろう。