伊東四朗の「生誕77周年記念」、つまり「喜寿のお祝い」の舞台である。脚本が三谷幸喜、演出が出演も兼ねるラサール石井、他に福田沙紀、馬渕英里可、瀬戸カトリーヌ、駿河太郎、伊東孝明、大竹浩一、阿南健治、戸田恵子。
タイトル、出演者、脚本と見れば、大きな期待を持つが、見事なまでの肩すかしを喰らった。役者への「当て書き」を得意とするはずの三谷幸喜作品でありながら、役者の個性が活きておらず、「この役はやはりこの人でないと…」というのは、伊東四朗だけと言ってもよく、腕に覚えのある戸田恵子でさえ、「どうしても戸田恵子である必要があっただろうか」と考えさせられる。
プログラムを読んでみると、芝居のあらすじが書いていないことや、出演者の座談会などからわかるが、途中で今までの脚本が全く変わったようだ。ラサール石井などは、当初は大石内蔵助の予定が、現代の病院の医師に変わった。幕が開くまでにどんなプロセスを経てこうなったのかは知る由もないが、休憩なしで1時間40分の舞台が「長い」と感じるほどに冗長な芝居で、さんざん引っ張った挙句の幕切れも効いていない。これでは、割を食うのは出演者で、多くの観客が伊東四朗の喜劇を期待して満席になっているであろうに、何とも残念な結果だ。
私が今さら大声を上げるまでもなく、喜劇はシチュエーションに始まり、台詞の「間」、いくつものすれ違いや勘違いが笑いを産んでゆく。すべてが大爆笑である必要はなく、クスリとした笑いでも充分に喜劇としての要素を満たしている上質な芝居はある。しかし、どんなジャンルにおいても、最も重要であるはずの脚本の土台がしっかりしていないと、いかに達者なメンバーを揃えたところで効果のあげようもなければ腕の見せようもない。伊東四朗とラサール石井が長年の舞台で鍛えた「力技」とも言える芝居と、役者の個性で舞台が盛り上がる場面はあるものの、他の出演者に関して言えば、程度の差こそあるものの、ほとんどが不完全燃焼、という状態である。
私の観るところ、三谷幸喜という作家は当たりはずれの差が非常に大きい。『オケピ!』は「はずれ」の筆頭とも言うべき作品であり、最近で言えば『酒と涙とジキルとハイド』は「当たり」だろうか。芝居は、作者・役者・観客、それぞれが一期一会の時間と空間を共有するものだ。期待していただけに喪失感も大きく、最大限の努力を尽くしたのだろうが、もう少し何とかならなかったものだろうか、と思わざるを得ない。かつて、遅筆で知られた井上ひさしが、脚本が公演に間に合わずに返金するという、最悪の事態を引き起こしたことがある。まだインターネットでチケットが買えず、朝からプレイガイドへ並ぶ時代の話だ。そこまで至らずには済んだのが救いであり、作者のギリギリの良心だろう。
伊東四朗という、貴重なコメディアンを主役に据え、その喜寿のお祝いとする舞台には、あまりに気の毒な、残念な舞台だった。