明治座でも恒例になった花形歌舞伎、今月は市川猿之助、市川中車、片岡愛之助、市川右近を中心にした顔ぶれで、エネルギッシュな舞台に汗を流している。
夜の部は、村上元三の作『あんまと泥棒』を猿之助、右近で幕を開ける。歌舞伎には珍しく、登場人物がたった二人しかおらず、タイトル通り、あんまと泥棒しか出ない。強欲なあんまの家に押し入った泥棒とのやり取りをコミカルなタッチで描いた軽い一幕だが、このわずか40分が難しい。中車のあんまは科白がまだまだ「歌舞伎の科白」とは言えず、一方、猿之助の泥棒は、畳み掛ける科白がいささか早口で聞き取りにくい。その上、夜中の話であるために舞台が暗いのと、装置が大きすぎるのが悩みだ。
歌舞伎の舞台が大きくなってからどこの劇場でも感じることだが、貧乏な長屋の一間がやけに広く、まるで20畳もあるリビング・ルームのように見えることがある。それでも、このだだっ広い空間を役者の腕で感じさせなければ問題はないが、今回の二人ではそこまでは行けなかった。作品の性質からしても、これなどは小劇場空間で上演した方が、二人の間に漂う濃密な空気感が色濃く出ただろうし、どうしても「歌舞伎」として上演しなくてはならない作品でもない。苦肉の作品選択であることはわかるが、もう少し工夫のしようはなかったものか。
次が愛之助の『鯉つかみ』。伯父の片岡我當が若い頃に演じた上方の夏芝居を、愛之助が回を重ねるたびに膨らませ、今回は六役早替わりに宙乗りまで付いて、三幕物になった。片岡秀太郎、市川右近、市川中車、中村壱太郎などが周りを固めているが、ほとんど愛之助の奮闘公演と言ってよい。来月の大阪・松竹座では更に場数を増やし、役も十二役早替わりとして、一本の完全な通し狂言とするようで、今月はその手前の「お試しバージョン」の感がある。序幕の俵藤太の百足退治の場面なども、無理矢理に付け足した感じがあり、なぜこの話が冒頭で出て来るのか、後へどうつながるのかがよくわからない。
そうした脚本の不備を補うべく、愛之助は次々に役を替わり、池へ飛び込んだかと思うと全く水に濡れていない姿で花道から登場したり、宙乗りでは三階席まで上がるなど大サービスだ。中でも大詰めの巨大な鯉との闘いでは、舞台に特設で作った池で鯉と大格闘を演じ、水が観客席まで飛んで観客は大喜びの喝采を贈っている。先代の猿之助が『伊達の十役』を初演した頃の活気を思い出すようだ。
現在、「花形」と呼ばれる彼らのような世代の役者たちが、各劇場で「敷居が高い」と思われている歌舞伎の間口を広げようと、古典の見直しや新作の上演など、さまざまな試みを行っている。大幹部たちと若手をつなぐ貴重な中間世代を、ここ数年で何人も喪った危機感は、演じる側にすればファン以上に深刻なものだ。そのために、毎月各劇場を飛んで歩いて休む間もなく歌舞伎を演じている努力は評価したい。こうした試みが活発になると、必ず「観客への迎合ではないのか」「本格古典をどう継承するのだ」という議論が出て来る。彼らは、そんなことは百も承知の上だ。歌舞伎400年の歴史の中で、世代交替が行われた時期には、必ずと言っていいほどなされた議論であるはずだ。「良いか」「悪いか」は、今すぐに判断が付くものではない。ただ確実に言えるのは、何もせずにわあわあ騒ぐよりも、どんな試みでもやった方が良い、ということだ。その中で、質が悪い物は淘汰されてゆく。これは歌舞伎ばかりではなく、「芸能」が持つ宿命でもある。我々は、それを吟味する「眼」を持たなくてはならない。