「黒蜥蜴」
2015.09.08 東京芸術劇場
江戸川乱歩の原作を三島由紀夫が脚色した、何とも豪華な戯曲だ。妖美、耽美の世界を描く両巨頭が組んだ作品で、戯曲としての歩みを見ると初演は新派の初代・水谷八重子で1962年のことだ。以後、68年に美輪明宏(当時:丸山明宏)が演じて以来、今回が10回目の上演となる。他に映像化されてもいるが、『黒蜥蜴』と言えば美輪明宏、という構図が完全に定着したのは、1993年に23年ぶりに演じて以来だろうか。それからはほぼ数年おきにこの作品を演じ、私も93年の舞台からは逃さずに観た。プログラムによれば、肉体的な条件や今年が三島生誕90年、没後45年などの節目に当たることから、この舞台で最後にするとのことだ。
役者にとって、当たり役とされている物をすぱりと自ら切り捨てることは容易な仕事ではない。むろん、再演だから、良く知っているから楽だ、というものでもない。観客は貪欲だ。評価が高ければ、自分の期待以上の物を望む。それを超える物を見せなければ、次には続かない。その繰り返しをここ22年にわたって続けてきたのは見事なことと言えよう。しかし、全三幕出づっぱりで、30分の休憩を含めて3時間45分に及ぶ長編は、肉体的にはかなり苛酷でもある。それを知りつつも乗り越え、「もう一度やりたい」と考えるのが役者の常だが、それをしない潔さは美輪明宏の見識でもあり美学でもあるのだろう。
自らが美しかったからだろうか、「美」に囚われ、ひたすらに美を求める女賊・黒蜥蜴。213カラットという類のないダイヤ「エジプトの星」と、それを所有する宝石商の一人娘・早苗を奪い、自らが島に所有する美術館に「生き人形」として剥製にして展示しようという企みを持つ。そこを、天下の名探偵・明智小五郎に邪魔され、お互いが知恵の限りを尽くして渡り合ううちに、双方に恋心が芽生える。しかし二人は、その恋を決して成就してはならない立場に立たされていた。隠れ家の美術館に踏み込まれ、自らの敗北を知った黒蜥蜴は…。
他の作品でもそうだが、演出のみならず、美術・衣装・音楽にも自らが携わって来ただけに、細部の目配りまでのこだわりには感心する。欲を言えば、回りの若い助演陣が、そのこだわりのどこまでを自らの血肉として表現できたか、だが、この作品は美輪明宏の独壇場でもあり、逆に言えば黒蜥蜴一人が舞台で七色の光彩を放つところに価値があるのかもしれない。前々回、2008年の公演からそれまで早苗の恋人を演じていた木村彰吾が明智小五郎に抜擢され、今回で三回目になるが、今までに比べると役の個性が見えて来て、わずかながら美輪ワールドの具現に近づいた感覚がある。前回以来の白川和子もベテランの味だ。
何回ものブームを起こしながら、シャンソン歌手・俳優としての足跡を残して来た。個人的な想い出で言えば、高校の終り頃だったか、自作の『老女優は去りゆく』をテレビで聴いた時の衝撃は忘れ難い。この『黒蜥蜴』以外にも、『双頭の鷲』や『近代能楽集』の中の『葵上』『卒塔婆小町』、自作の『愛の讃歌』などの舞台を繰り返し上演して来た。
しかし、私は現在までに美輪明宏が築いた最大の功績は、歌舞伎や新派などの古典芸能ではないジャンルでの「新しい女形」の創造ではなかったか、と考える。ここへたどり着くまでの茨の道については本人の著書に譲るが、時代によっては「際物」としか見られなかった古典芸能以外での女形芸を確立した功績は、昭和の演劇史からはずすことはできないだろう。その間に味わった筆舌に尽くし難い苦労を、一つのブランドにしたのだ。
美輪明宏の『黒蜥蜴』は、暗い深い水底へ沈んでゆくことで、その伝説を残したのだろう。