四世 中村雀右衛門(1920~2012)
初回は、今月の歌舞伎座で幕を開ける「五代目 中村雀右衛門襲名披露興行」にちなみ、先代の中村雀右衛門からスタートすることにしよう。
何かのエッセイで、雀右衛門のことを「しなやかなる老練」と書いた記憶がある。晩年に至るまでの若々しさは、誰もが認めるところだ。昭和の立女形だった六世中村歌右衛門の影に隠れ、常に二番手を守らなければならなかった悲哀は多くのファンが感じているところだろう。しかし、逆に、歌右衛門では演じられない物の中でも、名品を遺している。女形の大役として知られる、「三姫」という役柄がある。三本の芝居に出て来る「姫」と名の付いた役で、それぞれに持ち味も状況も違い、甲乙つけがたいほどに難しいものであることは確かだ。歌右衛門はこの中で『十種香』の八重垣姫を一番の得意とし、雀右衛門は『金閣寺』の雪姫を得意とした。前者は深窓の姫君、後者は色気に満ちた人妻である。優劣はないが、こうした個性から見れば、雀右衛門の芸の方が歌右衛門よりも明るく、華やかなものであったことがわかる。
もう20年近く前の話だから、時効としても良いだろう。雀右衛門が歩んで来た道をまとめることになり、自らが文章を書いている時間がない雀右衛門との座談を重ね、それを出版したことがある。当時、雀右衛門が住んでいたマンションで、芝居の合間を縫って20回以上の芸談の採集を行った。大概は、夜の芝居がはねて、それからのスタートになる。東京タワーが間近に夜の煌めきを見せる大きなリビングで、舞台を終えた後の開放感と心地よい疲労に包まれながら、インタビューの回を重ねた。
お手伝いの女性が、お酒のつまみを用意してくれているところへお邪魔をし、一杯やって寛ぎながら、合計で数十時間の芸談を聴けたのは大変な勉強であり、また幸せなひと時でもあった。予定の時間を過ぎてもなお、「もう少しいいじゃありませんか」と、深夜に及んだことも何度かあった。この本を作るために交わした会話の中で終始感じた雀右衛門の印象は「謙虚」の一言に尽きる。「私のようなものが…」というニュアンスで、すでに押しも押されもせぬ地位を確立している女形が語るエピソードの数々は、決して嫌味や過剰な謙遜ではなかった。詳しい紙数を裂く余裕はないが、これは、雀右衛門がこの名前を襲名するに当たり、襲名する予定の役者が戦死したため、ピンチヒッターのような形でこの大きな名前を継ぎ、それを一廉のものにするための苦労から発した言葉だと考えている。
雀右衛門の「謙虚さ」を感じたのはこの時ばかりではなかったからだ。何かの芝居を観る。終わった後、楽屋へ行き、挨拶をする。「どうでした、今日の舞台は?」と聞かれれば、批評家である以上、無駄なお世辞は抜きに感じたことを言う義務がある、と私は考えている。「失礼ですが、ちょっと感じたことがありますので…」と感想を言おうとすると、雀右衛門は必ず、座っていた厚い座布団をはずし、私の前に手を付いた。「辞めてください、どうか、頭をおあげになって…」といくら懇願しても、私が話し終わるまでは絶対に頭を上げることはしなかった。
年齢やキャリア、地位を考えれば、座ったままで話を聴いても何も問題はないどころか、誰もおかしいとは思わない。それを、40歳も年下の若い批評家がしたり顔で述べる感想にも真摯に耳を傾むける姿勢は、なかなかできないことだ。
こういう雀右衛門を創ったのは、戦争に取られ、命からがら帰って来て、ひょんなことから雀右衛門を襲名し、そこから本格的に女形の修行を始めた、という、コンプレックスとは言わないまでも、少しでも多くの事柄を自分の物にしたいという痛烈な欲望に裏打ちされたものであったのだろう。そこに、必ずしも順風の中で御曹司として半生をたどったわけではなく、映画や軍隊などで歌舞伎の修行を何度も中断した半生を、少しでも充実したものにしたい、という想いがあったに違いない。
さまざまなタイプの役者がいる中で、数奇とも言える運命をたどった中村雀右衛門という女形との時間は、私の中にも忘れがたいものとして残っている。