「伝説」が多すぎる、とも言える役者で、改めて私が何ごとかを書くまでもないのかもしれない。日本中を一大ブームに巻き込んだミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』を900回、津々浦々で上演した功績も大きいし、『社長シリーズ』や『駅前シリーズ』などの喜劇映画で、日本の怪しいオヤジを演じさせたら天下一品だった。『知床旅情』のように歌も歌えば詩も吟ずる。マルチタレントの走り、と言うべき存在かもしれない。

 その八面六臂の大活躍が認められ、「大衆部門」では初の文化勲章受章者ともなった。森繁久彌が成して来た仕事を、一言で「大衆芸能」と言われるのはいささか納得しかねる部分もあるが、もとより娯楽は大衆のものだ。その代表としての受章と考えれば良いのだが、それまでの日本の芸能に関する考えが、こうした諸芸をいかに軽んじて低く見ていたか、が判る。

 批評家の眼で見るなら、森繁の巧さ、というのは「絶妙なる間」にあった。場合によっては、自分が台詞を忘れているのに、巧みな間を取ることで、さも忘れたのは相手であるかのような錯覚を観客に与える。また、「笑い」にせよ「涙」にせよ、芝居のクライマックスに差し掛かるまでの間の取り方はまさに緩急自在だった。これは、名人の仕事だ。
もう一つ、森繁久彌という役者の真骨頂は「偉大なるB級」ということだ。最近、「B級」という言葉が他の意味を持ち定着しているが、食べ物や何かで使われる「B級」とはいささかニュアンスが違う。常に庶民と同じ視線の高さにいる気軽さ、とでも言おうか。「森繁」という苗字を時に「モリシゲ」とカタカナで表記され、誰もがこの名優を呼び捨てにして憚らないところに、愛すべき庶民性があった。これをして、私は「偉大なるB級」と呼びたい。

森光子、加藤治子、山岡久乃など「日本のおかあさん」と呼ばれた女優は多い。そういう点で言えば、「日本のお父さん」の代表格はモリシゲだろう。風貌の立派さから、ホームドラマでも平社員の役などはなかったものの、それでも必ず森繁をやり込める、あるいは適わない役どころの役者が必ず配置されていた。こういう人がいた時に、森繁の芸は燦然とした輝きを放つのだ。

戦争を忌避して満洲でNHKのアナウンサーをしている時にその才を認められ、終戦後は新宿にあった「ムーラン・ルージュ」などで腕を磨き、徐々に活動の幅を広げて行った。その名を決定的に全国区にしたのは、昭和30年に封切りになった淡島千景との映画『夫婦善哉』の頼りない亭主だろう。「おばはん、たのんまっせ」という軽みと情のある一言がこの役者の評価を決めたと言ってもよい。以降は映画、テレビ、ラジオ、舞台と向かうところ敵なし、の国民的俳優になったのは周知の通りだ。

森繁久彌はウィットに富んだ座談の名手でもあった。多くの座談が残されているが、相手が同業の俳優であろうが経済人・政治家であろうが、大正生まれのインテリジェンスが堂々としていて軽快な座談を繰り広げ、相手を楽しませた。

個人的な話になるが、私が『観客席の片隅で』という芝居の批評をまとめた本を上梓した折に、序文を森繁が書いてくれることになった。大変にありがたい事ではあったが、「公平中立」であるべき批評家が、特定の役者に序文をもらうことにためらいもあった。しかし、当時の森繁は、すでにそうした雑事を超越した存在であった。考えてみれば年齢が50も離れている若者に対して、森繁が何を言おうと、誰も何も感じるわけはないのだ。
 私が親しく付き合っていただいたのは晩年のことになるが、以前から舞台を観ており、古い話が通じるところから、千歳船橋の自宅へ芸の話を聴きに出掛けてもうるさがられる事はなかったのだろう。その折にも何度か言われたが「中村君ねぇ、芝居は好きじゃなければできるもんじゃない。でも、好きなだけでもダメなんだよ」との言葉が印象に残っている。

 晩年はほとんど表へ出て活動をすることはなくなり、悠々と日々を送っていたが、自分よりも若い人々が次々に旅立ってしまうのが堪らなく寂しかったようだ。マスコミでは「弔辞の名人」などと無責任に囃し立てていたが、長生きをすることの辛さの一面を無言のうちに教えてくれた、最期まで雄々しい「大正の男」だった。