去年の9月30日に東京・立川で幕を開けた平幹二朗の『王女メディア』が、近畿・中国・四国・中部・北陸・東北・北海道の旅を経て、96ステージ目でこの水戸芸術館で千秋楽を迎えた。1月の上旬に東京グローブ座でも一週間ほどの公演を持ったが、2013年の「一世一代」が好評を受け、82歳にして「一世一代、ふたたび」と銘打って全国を巡演しているのは驚異的なことだ。
ギリシャ悲劇は、我々日本人には人物や土地の名前などの固有名詞が馴染みにくい。この脚本を修辞した詩人の高橋睦郎は、1978年の初演当時からその部分にこだわり、原作では「イアソン」となっているメディアの夫を「夫」とし、「アテナイの王・アウゲウス」を「隣国の太守」として、固有名詞を排除し、一般名詞化することで日本語に馴染むような工夫をしてある。更に、日本の古典芸能や謡などを意識し、台詞の中にも「三千世界」「恩愛」など、こうした芸能で良く使われる言葉が用いられている。
これらの工夫が、戯曲を古びさせることなく、人間が持つ普遍のテーマを生かしているのだ。芝居というものは、土台となる脚本がキチンと創られていれば、何回の上演にも耐えうることはシェイクスピアや近松門左衛門が歴史の中で証明していることであり、高橋睦郎の修辞により、『王女メディア』も時代を超える普遍性を持ったことになる。演出は、初演から1999年までは蜷川幸雄、2012年からは高瀬久男に変わったが、高瀬の急逝により今回は高瀬演出を踏襲した上で田尾下哲が今回の演出に当たっている。
夫の山口馬木也が保身のために国王の娘を妻にすることを決め、妻(メディア)の平に二人の息子を連れてこの地を去るように告げる。夫の不実をなじる妻に、夫は新しい縁組は子供たちのためでもあるのだ、と言い逃れをする。夫の勝手な言い分に、妻は復讐を決意する…。
この作品の作者であるエウリピデスは、紀元前400年代を生きた人物だ。今から2400年前の夫婦の愛憎劇は、時間や場所を超えて現代も我々の胸に訴えかけるものが大きい。根源的な嫉妬や愛情などの感情は、時代や場所には関係ない、ということだ。演劇的に見れば、ストーリーの伏線を張り巡らせるなどの技巧ではなく、人間の感情同士がストレートにぶつかり合う芝居であるだけに、台詞、そして役者の技量が問われる作品であるとも言える。1979年の初演時には、人形師の辻村寿三郎の容貌魁偉とも言える豪奢な衣裳などが話題を呼んだが、だんだんにそうした物が取り去られ、今回の舞台は衣裳も装置も簡素だ。その分、役者が生身の肉体で勝負をし、どこまで観客を説得・共感させられるかという問題に変わった。役者にとっては挑戦のし甲斐があると同時に、その力量が問われる難しい舞台だ。
東京の上演でも感じたことだが、台詞の朗誦には定評のある平のメディアが、回を重ねるごとにどんどん透明感を増している。それでいて、力がなくなっているわけではない。常識的に考えれば、半年にも及ぶ巡演を経れば、相当に肉体は疲弊しているはずだが、この千秋楽の舞台には、そうした感覚は微塵もない。むしろ、軽々と動き、笑う場面もあれば、一転して巨大なエネルギーが暴発するのではないか、とも思えるパワーを感じさせ、まさに変幻自在である。自らの子供を手に掛け、夫への復讐を果たした後、夫とのやり取りの場面ではろうたけた笑顔を浮かべ、崇高さをも漂わせて凛然としている。見かけだけではなく、自ら放った復讐の矢が自分に返ることを知りながらも、敢然と復讐を遂げる役は、男性のエネルギーを必要とするものでもある。ここに、この芝居を女性や女形ではなく『男優』が演じる意味があるのだろう。元を正せばギリシャ劇はすべて男性が演じて来た歴史的背景がある。その意味が、今回の舞台で明確にわかった。
山口をはじめ三浦浩一、若松武史らの共演者すべてを呑み込むかのような圧倒的迫力を持って、メディアが屹立している幕切れは圧巻だ。しかし、夫の不実に対する見事な復讐として、新しい妻になる予定の娘とその父を毒殺し、自らの子を殺したメディアには、この後の「救い」もなければ「赦し」もない。こうした大きな代償を払ってまで復讐を遂げたメディアの心にあるのは、すべてを達成した後の「諦念」だったのではなかろうか。
カーテンコールで何度も頭を下げる出演者たちは、すべてを出し尽くした、との表情を見せたが、メディアの平幹二朗だけは、艶然と微笑んでいたのが印象的である。