先年58歳の若さで亡くなった子息の十八世もそうだったが、「良くも悪くも勘三郎」という役者だった。「何をやっても同じ」、という意味ではない。しかし、どこかに他の役者には真似のできない何かがあり、面白いことにそれは親子といえども違っていた。親子二代の勘三郎を想う時に、頭に浮かぶのは「役者子供」という愛すべき言葉だ。特に、この十七世にとっては、総理大臣が変わろうが、株の相場が下がろうが関係なく、「自分が次の芝居で何をやるか」の方が大切だったのではないか、と思う。これは、もちろん批判ではなく、他の人にはできない真似である。ただ、今はこうした愛すべき個性が、芝居の世界でも通用しなくなってしまった。思う存分わがままを発揮し、「役者子供」として生涯を全うできた勘三郎は幸福な役者だ。
恐らく、数多い歌舞伎役者の中で、「ギネスブック」の記録を保持していたのは、この人だけではなかろうか。その記録が、「800以上にわたる役を演じた」というのだから凄い。芸の幅が広い、どころの騒ぎですむ話ではなく、「何でもござれ」というぐらい、何でもやりたい役者だったのだ。事実、中心となる歌舞伎でも立役、女形のどちらも演じたし、それ以外の松竹主催の新派や大劇場公演は言うに及ばず、東宝主催の公演で宝塚劇場や帝国劇場でも主役を演じている。環境さえ整えば、ミュージカルも演じたかったに違いない。
もちろん、800を超える役すべてが良質の物だったとは言い難い。これがすべて大成功であれば、奇蹟以外の何物でもない。不成功の舞台もたくさん観ているが、一つは作品自体が悪く、勘三郎の力ではどうにもならなかったもの。昭和54年に、帝国劇場で『百年目の幽霊』という芝居を演じたことがある。平岩弓枝原作の喜劇で、新珠三千代、草笛光子らの手練れを揃えながら、どうにも面白くなかった。「喜劇」と銘打ってはあるものの、勘三郎が持つユーモアのセンスや身体からにじみ出るおかしさと、脚本が求める荒唐無稽がどうにも合わなかったのだ。
これは推測になるが、この芝居で「王子」を演じた勘三郎は、本来であれば『ハムレット』を演じたかったのではなかろうか。その代わりになるべき作品として、この作になったものの、結果が伴わなかったように思えてならない。
もう一点、これは本人に起因するもので、勘三郎は舞台を「投げる」癖があった。何が気に入らないにせよ、気に入らないと、全くやる気のない芝居を見せる。本人にはやむにやまれぬ事情があったのだろうが、巧い役者であることを知っている我々観客には、悪い癖、としか映らなかった。
しかし、その一方で「はまった」時の凄さはなかった。昭和53年9月に歌舞伎座で演じた『刺青奇偶』(いれずみちょうはん)などは、三階席から観ていても、顔中を涙で濡らすほどの役への入れ込みようだったし、晩年近くで言えば、昭和57年3月に歌舞伎座で『吉野川』の大判事を演じた時も凄まじかった。
相手役の定高は、この役を何度も演じて当たり役にしている歌右衛門で、対する勘三郎は、この時73歳にして「初役」での挑戦だった。元来、時代物を演じると「軽い」と評され、時代物の中でも大作であるこの芝居には手が出しにくかったのだろう。しかし、歌舞伎座の両花道を出て、客席を挟んで歌右衛門と対峙した時の勘三郎は見事だった。少しでも歌右衛門の上を行こうと芝居をする。それをさせじと歌右衛門がその上を行く。互いに、「乗っ越す」ように相手の芝居の上を行こうと、まさに丁々発止のやり取りだった。
『吉野川』は晩年での初役だったが、勘三郎は年を重ねても初役への挑戦を厭う気配は微塵もなかった。むしろ「あれもやってみたい」「これはどうだろう」という意欲の方が勝っていたような気がする。それが、結果的にはファンを喜ばせることにつながりもしたのだ。
「歌舞伎は古典芸能だ」とは言っても、近代演劇と同様に演技論や演劇論はある。勘三郎はあまりそういう物を気にしない役者だった。歌舞伎では俗に「機嫌のいい役」と呼ばれる役がある。簡単に言えば、見せ場が面白い、ということだ。勘三郎はこういう役を好み、演じている時は本当に嬉しそうだった。演劇論で眺めれば、「観客が喜ぶ前に演じる役者が喜ぶのはどういうものか」という話題になるが、勘三郎にはそういう話は通用しない。なぜなら、嬉しそうに演じている勘三郎を観ているだけで、観客も嬉しくなるからだ。そうした意味でも、「良くも悪くも勘三郎」なのだ。