劇団「ワンツーワークス」が、主宰の古城十忍の作・演出により2011年以来の初演以来、東京で5年ぶりで『死に顔ピース』再演している。一口に言えば、昨今問題になっている「終末医療」をテーマにしたものだ。この芝居の観るべき点は、終末医療を施す医師の側と、末期がんの状況に置かれた家族との両方を対等に描いた部分にある。我々の多くは「患者」の立場に立たされる可能性はあるが、その命を預ける「医師」あるいは関係者の立場に立つことは極めて少ないだろう。
最近、特に「がん」を対象にした先進治療の進歩は目覚ましい。その一方で、これだけ努力が重ねられ、研究が進んでもなお、完治に至らず日本国民の二人に一人はがんで命を落とす時代でもある。誰しもが健康な晩年と安らかな臨終を迎えるのが望みだが、それが実現できないところに、医師と患者の双方の悩みがあるのだ。作者は自らの体験をもとに、どういう「終末」が理想的なのかを、笑いを混じえた舞台の中で、観客に問い掛けている。患者の苦痛は横に置き、「がん」という病気と闘い、完治を目指すことを使命と考える医師と、自分の人生の終わりを「延命」だけにとらわれずに、自分らしく生きたい、と願う患者やその家族。しかし、今の日本の医療制度の中では、どちらの希望をも満たすことは不可能に近い。さらに問題なのは、この確執とも言える状況において、どちらが正解、というものがないことだ。
「病人」ではなく、その症状である「病変」を診ることに懸命だった大学病院の外科医師・渡良瀬(奥村洋治)は、大学病院での日々に疲れ、開業医として「ターミナル・ケア」の治療に従事する。今までに自分が追求してきた方向とは正反対で、「いかに患者を治療するか」ではなく、「いかに患者の残された時間を大事にするか」への方針転換である。かつて大学病院でライバルでもあった同僚は、教授の椅子が空くのを機に病院へ戻れと勧めるが、もうそうした生活には戻りたくない、と拒む渡良瀬。渡良瀬が大きく考えを変えた理由は、大学病院で末期がんの患者に言われた一言にあった…。そんな折、病院の看護師の女性にがんが見つかる。
今の世の中は、数十年前とは違い、「死」が日常から遠くなり、さらに遠ざけられる存在になった。この世の全員が「死ぬ」にも関わらず、である。その理由は医学の進歩を筆頭に、家族構成や暮らし方の変化、経済的な問題や食生活など、多くの要因が絡み合って生まれたものだ。この状況はさらに加速する一方で、「アンチエイジング」なる行為で、現在の年齢よりもいかに若い状態の身体を保てるか、さまざまな方法が新聞やテレビなどで報道されない日はない。誰にとっても、「死」は嫌な問題であり、人生最大の恐怖だろう。しかし、人間の歴史始まって以来、死ななかった人は一人もいない。わずか200年ほど前の江戸時代には、人々は諦めや抗えないものとして、「死」を現代人よりも見事に、恬淡と受け止めていたような気がする。今の我々は、ごく当然に明日やそれ以降の計画を立て、忙しく飛び回っているが、それが当たり前だという保証はどこにもない。むしろ、多くの奇跡の連続で、明日も今日と同じような日常が送れるのだ。
西洋哲学に、「メメント・モリ」という言葉がある。日本語に直せば「死を想え」ということになろうか。古城十忍は、恵まれた日本の日常生活の中で、改めて現代の我々にとっての「メメント・モリ」とは何なのか、観客の一人一人に強いメッセージと問い掛けを発している。好んで考えたくない話題かもしれないが、それが結局は自分の人生の幕引きになるのだ。嫌な問題から蓋をして考えないようにするのではなく、自分の最期の大きな問題だからこそ、真剣に向き合うべきだ。その点で、この作品に共感できる部分は多い。