2015年の夏、スポーツジムのサウナで急逝、の報が飛び込んできた時には驚いたが、享年86歳という年齢を知ってさらにびっくりした。いつも元気で快活なイメージの役者であり、80代も後半に差し掛かっていたとは…、というのが本音だ。しかし、芸歴を考えれば当然のことで、いつまでも磊落に元気でいてほしかったからそう思ったのだ。
映像の仕事での評価が高く、市川崑監督の『金田一耕助シリーズ』のいささかおっちょこちょいな警察のお偉いさんをはじめ、『釣りバカ日誌』でのコミカルな演技などが多くの人々の印象に残っているのではなかろうか。年譜を正確にたどれば、映画への初出演は1953年の『にごりえ』で、その前年の1952年に文学座の研究所に入所、舞台俳優としてのスタートを切っている。いずれにしても、60年以上の現役俳優としての生涯を貫いたのは見事な生き方だ。同時に、最後まで文学座の役者として生き抜いたことにも頭が下がる。
印象に残っている舞台は、有吉佐和子が文学座の杉村春子のために書き下ろした『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の横浜の妓楼・岩亀楼の亭主だった。幕末の尊王攘夷で荒れる横浜を舞台にしたこの芝居は文学座の財産演目となって繰り返し上演され、その後他の俳優も演じるようになったが、加藤武は他の追随を許さない出来映えを見せた。杉村が演じる主人公の芸者・お園とのポンポンと飛び交う台詞のキャッチボールが面白く、劇団で杉村と共に歩んだ歳月を感じさせた。山っ気があるくせに情に厚く、酸いも甘いも噛み分けた妓楼の主人は、見事な当たり役と言える。
築地生まれであることを誇りに思い、麻布中学の同級生が小沢昭一、フランキー堺、仲谷昇というのも豪華な話で、昭和初期の「東京っ子」の風情を感じさせたのは、この出自や育ちゆえだろう。外見は強面だったがインテリジェンスとユーモアに溢れた一面を持ち、それが後年は「演出家」として劇団の芝居に携わるようにもなり、趣味の部分で言えば、小沢昭一や入船亭扇橋などの気の合った仲間と数十年にわたって続けた「やなぎ句会」であったのだろう。晩年は、朗読にも力を入れていたが、加藤武は自分の芝居や朗読を通じて「旧き良き東京の姿」を残そうとしていたような気がしてならない。それを声高に叫ぶわけでもなく、淡々と仕事に臨んでいたのは、文学座創立の折の「三幹事」の一人、久保田万太郎譲りの東京っ子の「含羞」ではあるまいか。
映像は残る。しかし、舞台は幕が降りた瞬間に消える。そこに価値があるのだとも言える。加藤武の俳優人生は、いささか急に過ぎた幕切れを迎えたような気がするが、老醜をさらすことを厭い、未練を見せぬ間に、さっと幕が降りたように思えてならない。演出家としても多くの作品を残している加藤武が、そこまでを演出しようとしたのかどうかはわからない。しかし、いかにも「加藤武らしい」人生の幕の下ろし方だったように思えてならない。どんな役者でも「もう一本、最期に芝居をしたい」と思い、観客も「もう一回、観たい」と思う。その感覚を抱かせる間もなく、この世を去った加藤武が残したものは、法名の中にまで入っている、「阿吽」という俳名が示すような余韻である。