劇団民藝が、客演に岡本健一を迎え、テネシー・ウィリアムズの『二人だけの芝居』を上演している。舞台芸術が、幕が降りた途端に雲散霧消することに大きな価値の一つがあるのは承知だが、この舞台は後に「平成の演劇史」を語る折に、大きな記念碑となるであろう。第一の理由は、一昨年の2014年に『蝋燭の灯、太陽の光』でウィリアムズの作品の日本初演を果たした民藝が、もう一篇、ウィリアムズの作品を日本で初演した、ということだ。この『二人だけの芝居』は、いまだに人気の衰えないテネシー・ウィリアムズの代表作『ガラスの動物園』や『欲望という名の電車』とは明らかに異質の劇構成や感情によって描かれた作品である。
もう一点は、タイトル通りに二人しか登場人物のいない芝居に、客演として岡本健一を迎えたことだ。ジャニーズ事務所の所属ながら、かなり若い時代から舞台への指向が強く、劇場の大小を問わず多くの経験を重ねてきた彼は、もはや一人の立派な「中堅俳優」である。彼が、新劇の老舗の劇団に客演し、大ベテランの奈良岡朋子に体当たりで胸を借り、芝居の内面を深めることを追求した舞台でもある。単純に、ジャニーズ事務所所属の人気俳優が新劇の老舗劇団とコラボレーションをした、という話ではない。詳細は省くが、大ベテランの芝居に鼻っ柱をへし折られ、完全に参った彼が、懇望してようやくかなった共演である。40歳の年齢の差のある役者同士の生身のぶつかり合いなのだ。86歳で見事な軽やかさと迫力を見せる奈良岡朋子、46歳でそれに立ち向かう岡本健一が生み出す濃密な時間と空間の中でやり取りされるドラマは、さながらジェットコースターに乗っているかのような感覚さえ覚える。
旅公演でどこかの地方にいるクレア(奈良岡朋子)とフェリース(岡本健一)の姉弟。フェリースは劇団の座付き作家兼俳優でもあり、クレアは女優だ。しかし、二人は劇団員から狂人扱いされ、愛想を尽かされた挙句に置き去りになっている。彼らの周りには誰もいない。この二人だけの空間で、いつか劇場を訪れるかもしれない観客のために、フェリース自身が書いた二人芝居の稽古が始まる。しかし、その稽古は順調に進むことはなく、やがて二人が抱えている暗く、おぞましい過去が浮き彫りにされることになる…。
二幕構成で、15分の休憩を挟み1時間45分という上演時間だが、二人の台詞の数は膨大だ。しかも、観ているうちに、どこまでが二人の日常でどこからが劇中劇なのか、またどこからが二人の妄想や空想、あるいは嘘なのかが分からなくなって来る。そもそも、二人のうちのどちらが正常でどちらが狂人なのか、二人揃って狂人なのか、さえも混乱してくる。しかし、あらゆる台詞の中には、作者・ウィリアムズの「心の叫び」や「想い」が奔流のように伝わってくる。それは、かつて喪った姉への想いであり、自らの人生の告白や苦しみの叫びだ。
難解、と一言で片づけてしまえばそれまでの芝居を、演出の丹野郁弓が生々しく炙り出して見せる。それにしても、奈良岡朋子の衰えを見せない芝居には驚嘆する。時に舞台の上を小走りに横切り、速射砲のような台詞の応酬をし、堂々たる横綱相撲である。劇団民藝の歴史を背負って屹立する巨大な壁とも言える奈良岡に、岡本は体当たりで今までの蓄積のすべてをさらけ出すようにぶつかる。この摩擦が、芝居を面白くしている。
一気に駆け抜けた芝居は幕切れを迎えるが、舞台の明かりが落ち、真っ暗になっても、今まで観ていた芝居のどれが真実で、何が嘘だったのか、観客である我々は混乱し、二人が作り出した濃密で爛れた空気の中にいる。しかし、それこそ作者が観客にかけようとした魔法なのだろう。我々は、演出家と二人の俳優によって、完全にウィリアムズの術中に落ちたことになる。なぜ、この芝居が今まで日本で上演されることがなかったのか、理由はいくつか考えられる。しかし、それを克服して初演した意義は大きい。