⑫三木 のり平(1924~1999)

 三木のり平に、「喜劇」という看板が付くのは、森繁久彌と共に一時代を築いた映画『社長シリーズ』や『駅前シリーズ』での好助演が多くの人の印象に残っているからだろう。「笑い」にも幾つもの種類があり、「爆笑」「微笑」「嘲笑」「苦笑」「泣き笑い」「微苦笑」など、グラデーションを奏でている。映画で見せたのり平の笑いが「爆笑」であるとすれば、後年の舞台で見せた笑いは「微苦笑」や「泣き笑い」に近い物が印象に残っている。私には、三木のり平という役者の本領は、実はその領域にこそあったように思えてならない。

 三木のり平のエピソードに、「本名が女性と間違えられたために、徴兵に取られなかった」というエピソードがある。本名は「則子」と書いて「ただし」と読む。確かに、一見すれば女性と間違えても仕方がないが、事実は召集令状が来たのが終戦の数日前だった、ということだ。召集が遅れた事情には本名の読み違いがあったのかどうか、それは定かではない。こうした、喜劇のような逸話を持つだけに、明朗なおかしみを持つ役者だ、という印象があるが、実は非常に緻密かつ繊細な頭脳の持ち主である。現在の「お笑い」と呼ばれるものの範囲があまりにも広がったために、「喜劇」や「コメディ」をどこまでと区切ることはできないが、舞台でのコメディは、誰にでも、どんな場合でも緻密な計算と繊細な演技の「間」が要求される。たとえメチャクチャな事をしているように、あるいはいい加減な事をしているように見えても、その裏には緻密な計算があってしかるべきだ。それを観客に悟らせることなく笑わせることができてこそ「一流」と言えよう。

 まだ宝塚劇場で今のように年間12か月宝塚歌劇団の芝居が打てる状況ではなかった昭和50年代、年間半年近くは東宝主催のいわゆる「商業演劇」の舞台で幕が開けられていた。森繁久彌、山田五十鈴、浜木綿子、八千草薫などの看板役者の座長公演で、ショーは付かない「一本芝居」だった。昭和55年9月、森繁久彌、赤木春恵、三木のり平らの一座で『機関士ナポレオンの退職』という芝居が上演された。座長は森繁久彌で、三木のり平の役どころは森繁の部下の気の弱い機関士、という一連のシリーズ映画を想起させるものだったが、見せた芝居には「爆笑」ではなく、「哀歓」が込められ、時として主役を凌駕するような部分を見せた。ここに、役者・三木のり平の本領があると私は感じた。

 あえて「役者・三木のり平」と記したのは、演出家としても抜群の才能を発揮したからだ。森光子が半生を掛けて演じた『放浪記』は、当初は作者・菊田一夫の演出による舞台で、上演時間が4時間半を超えようという長さだった。いかに名作でも、余りに長いと役者も観客も疲弊する。菊田一夫が亡くなり、森光子も年を重ねる中で、新たに三木のり平に「新演出」の白羽の矢が立った。その時に、彼は脚本の洗い直し、無駄な部分のカットから着手し、演じている俳優にもどこをどう切ったのかを感じさせないほど自然に芝居を短縮し、現在の上演時間に収めた。この作業は、劇作・演出を専門とする人では成し得なかったかもしれない。長年舞台に立つ中で、演じる側として身体に沁み込んだ観客の反応を知るアンテナが鋭敏だったからこそ、できた作業だったのではないか。

 よく「コメディアンは気難しい」とか、「お笑い芸人は屈折している」と言われる。何があろうと舞台では観客を笑わせることに徹する立場の役者には、そうした職分にしか判らない苦しみもあって当然だ。中でも、三木のり平は「気難しく、インタビューが取りにくい役者」と言われた。私はインタビューの機会には恵まれなかったが、自らの役者としての人生を、そう簡単に語ることを好まなかったのだろう。芸談を採ることは非常に難しく、ベテランの役者は、こちらがよほどの勉強をした上で臨んでも、すぐに力量を見透かしてしまう。その眼力が、透徹した物であったのだろう。だからこそ、舞台の上の仮の世界を熱心に語ることを好まなかったのではないか。こうした頑固さこそ、三木のり平の真骨頂とも言えるのではないだろうか。

 三木のり平に、「喜劇」という看板が付くのは、森繁久彌と共に一時代を築いた映画『社長シリーズ』や『駅前シリーズ』での好助演が多くの人の印象に残っているからだろう。「笑い」にも幾つもの種類があり、「爆笑」「微笑」「嘲笑」「苦笑」「泣き笑い」「微苦笑」など、グラデーションを奏でている。映画で見せたのり平の笑いが「爆笑」であるとすれば、後年の舞台で見せた笑いは「微苦笑」や「泣き笑い」に近い物が印象に残っている。私には、三木のり平という役者の本領は、実はその領域にこそあったように思えてならない。

 三木のり平のエピソードに、「本名が女性と間違えられたために、徴兵に取られなかった」というエピソードがある。本名は「則子」と書いて「ただし」と読む。確かに、一見すれば女性と間違えても仕方がないが、事実は召集令状が来たのが終戦の数日前だった、ということだ。召集が遅れた事情には本名の読み違いがあったのかどうか、それは定かではない。こうした、喜劇のような逸話を持つだけに、明朗なおかしみを持つ役者だ、という印象があるが、実は非常に緻密かつ繊細な頭脳の持ち主である。現在の「お笑い」と呼ばれるものの範囲があまりにも広がったために、「喜劇」や「コメディ」をどこまでと区切ることはできないが、舞台でのコメディは、誰にでも、どんな場合でも緻密な計算と繊細な演技の「間」が要求される。たとえメチャクチャな事をしているように、あるいはいい加減な事をしているように見えても、その裏には緻密な計算があってしかるべきだ。それを観客に悟らせることなく笑わせることができてこそ「一流」と言えよう。

 まだ宝塚劇場で今のように年間12か月宝塚歌劇団の芝居が打てる状況ではなかった昭和50年代、年間半年近くは東宝主催のいわゆる「商業演劇」の舞台で幕が開けられていた。森繁久彌、山田五十鈴、浜木綿子、八千草薫などの看板役者の座長公演で、ショーは付かない「一本芝居」だった。昭和55年9月、森繁久彌、赤木春恵、三木のり平らの一座で『機関士ナポレオンの退職』という芝居が上演された。座長は森繁久彌で、三木のり平の役どころは森繁の部下の気の弱い機関士、という一連のシリーズ映画を想起させるものだったが、見せた芝居には「爆笑」ではなく、「哀歓」が込められ、時として主役を凌駕するような部分を見せた。ここに、役者・三木のり平の本領があると私は感じた。

 あえて「役者・三木のり平」と記したのは、演出家としても抜群の才能を発揮したからだ。森光子が半生を掛けて演じた『放浪記』は、当初は作者・菊田一夫の演出による舞台で、上演時間が4時間半を超えようという長さだった。いかに名作でも、余りに長いと役者も観客も疲弊する。菊田一夫が亡くなり、森光子も年を重ねる中で、新たに三木のり平に「新演出」の白羽の矢が立った。その時に、彼は脚本の洗い直し、無駄な部分のカットから着手し、演じている俳優にもどこをどう切ったのかを感じさせないほど自然に芝居を短縮し、現在の上演時間に収めた。この作業は、劇作・演出を専門とする人では成し得なかったかもしれない。長年舞台に立つ中で、演じる側として身体に沁み込んだ観客の反応を知るアンテナが鋭敏だったからこそ、できた作業だったのではないか。

 よく「コメディアンは気難しい」とか、「お笑い芸人は屈折している」と言われる。何があろうと舞台では観客を笑わせることに徹する立場の役者には、そうした職分にしか判らない苦しみもあって当然だ。中でも、三木のり平は「気難しく、インタビューが取りにくい役者」と言われた。私はインタビューの機会には恵まれなかったが、自らの役者としての人生を、そう簡単に語ることを好まなかったのだろう。芸談を採ることは非常に難しく、ベテランの役者は、こちらがよほどの勉強をした上で臨んでも、すぐに力量を見透かしてしまう。その眼力が、透徹した物であったのだろう。だからこそ、舞台の上の仮の世界を熱心に語ることを好まなかったのではないか。こうした頑固さこそ、三木のり平の真骨頂とも言えるのではないだろうか。