90歳で世を去る三ヶ月前まで歌舞伎の舞台に立ったことも特筆すべきだが、「名優」ともてはやされるようになったのが七十代も後半になってから、という半生こそ、この役者の生涯を語るものだろう。それまでの評価は、「温厚篤実ながら、科白が粘る」、「科白が聞き取りにくい」「熱演型の役者だが癖がある」など、決して好意的なものばかりではなかった。
それが豹変したのは、昭和56年、国立劇場の開場15周年記念で歌舞伎の三大名作の一つ、『菅原伝授手習鑑』の菅丞相を演じた時だ。この時、仁左衛門は77歳。しかも、その直前に罹患した緑内障のためにほとんど盲目に近い状態で、二時間に及ぶ『道明寺』を演じ切った。この場面は、菅丞相のモデルである菅原道真が、政敵に陥れられ大宰府へ流罪になる前夜の様子を描いた場面で、極端に動きが少ない。だからと言って、ほとんど眼が見えぬ状態で演じおおせるものではない。しかし、父・十一代目も自分も大事にしていたいわば「家の芸」であり、この場面はそう上演されるものではない。この記念的なチャンスに、仁左衛門は「死んでもいいから」と役者のこだわりを見せ、周囲の心配を押し切って演じた。
動きや科白が少ない中で、菅丞相の複雑な心情を見せる歌舞伎では「肚」と呼ぶ心理描写の巧みさ、精神性の高さに劇界は瞠目し、「技芸神に入る」「昭和の演劇史に残る名演」などの絶賛が噴出した。しかし、不遜を承知で言えば、私にすれば「今頃になって何を…」という不満はあった。仁左衛門の芸はその数年前から、色艶を増した光芒を放っており、その芸に魅せられた私は、少ないアルバイト代をやり繰りして、名古屋、京都、大阪と仁左衛門を「追っ駆け」て歩いていたからだ。
この舞台の前後、仁左衛門の芸は一気に花を開き、能の「老木の花」にも相応しい香気を漂わせた。『新口村』の孫右衛門や『菊畑』の鬼一法眼などの老け役はもちろんだが、本領とする上方和事の『時雨の炬燵』の紙屋治兵衛、『吉田屋』の藤屋伊左衛門などの白塗りの二枚目が漂わせる色気は、実際の年齢には関係なく他の追随を許さないものであった。また、上方の芝居や家の芸として演じておくべきもの、『鰻谷』や『大文字屋』、『馬切り』、『木村長門守』などの珍しい芝居も精力的に演じた。『馬切り』などは筋らしいものはなく、役者の風情と味で見せる芝居だが、歌舞伎が持つ荒唐無稽の楽しみを知らせるものでもあった。
更に驚くべきことには、八十を過ぎてから「初役」を演じていることだ。老年になってから初めての役を演じるのは珍しいことだが、全くないとは言えない。しかし、この時点での仁左衛門は目が見えないために「台本を読むことができない状況」にあったのだ。8時間を超える大作のドキュメンタリー映画『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』にその姿が遺されているが、仁左衛門は初役を演じる時は、夫人に科白を耳元で読んでもらい、それを一言一句噛み締めるようにして頭の中に入れていた。大道具の図面や衣裳の柄を観ることも叶わないため、頭の中でイメージを広げながら少しずつ役作りを重ねたのだ。
正直なところ、身体に負担のかからない、今までの経験にある役を演じていても、誰からも文句が出る状況ではなかった。しかし、仁左衛門は晩年に差し掛かってなお、それを自分に許すことはしなかった。この気持ちが、九十歳まで舞台を踏むという偉業にもつながったのだろう。
時に楽屋で、あるいは京都・嵯峨の自宅で有り余るほどの芸談を聴かせてもらったが、興が乗ると口癖の「ちょっと車輪やけどな」の言葉と共に、口三味線で私が知りたかった場面の芝居を見せてくれる。『沼津』の平作、『寺子屋』の源蔵、『吉田屋』の伊左衛門、『俊寛』の俊寛僧都…。演じ手ではない、20代の嘴の黄色い芝居者にも、決して偉ぶることなく、芝居好きなら…と楽屋で二人きりしかいない折に見せてくれた芝居の端々は、珠玉のような想い出である。
どうした縁か、京都の嵯峨で臥せっている仁左衛門に、逢えずとも枕元へスープなりとも届けたい、と乗った新幹線の車中で訃報に接し、舞台に立っていた三人の子息よりも早く家に着いてしまい、まだ報道関係が押し寄せる前の静かな場所で仁左衛門と別れを済ませることができた。しかし、批評家としては失格だが、それからしばらくの間、歌舞伎の舞台を観ることはできなかった。