三部に分けての『義経千本櫻』、第二部は「いがみの権太」を中心に据えた二幕の上演。最初が「木の実・小金吾討死」。尾上松也の小金吾、市川高麗蔵の若葉の内侍、片岡秀太郎の小せん、松本幸四郎の権太という配役だ。

この場面は、続く「すし屋」への伏線が張り巡らされている幕でもあり、丁寧に演じておく
と観客が「すし屋」に仕掛けられた多くのからくりを理解しやすい。松也の小金吾は、前髪立ちの若者らしい清潔さが出ており、爽やか、の一言。第一部の義経よりもこの役の方がよほど良い。元来、この役は彼のような若い世代の役者がやるべき役で、役柄にはまっている。小金吾が守る若葉の内侍は高麗蔵。こういう役が安心して観ていられる役者も実は貴重なのだ。たいした仕事をしないようでいて、その存在感と醸し出す雰囲気に値打ちがある役だ。改めていい役者になって来たのを感じる。

権太の女房・小せんは秀太郎。年齢を感じさせぬ色気と風情があり、ふとした仕草にもとの勤めが分かる。この役の肝心な「性根」の部分でもあろう。歌舞伎では「肚」という表現をよく使うが、台本には描かれていない行間から役をどう読み取り、造型するかはどの芝居も一緒だ。役者の年功は、こういうところで発揮されるものだ。

権太は幸四郎。若々しく、軽くすっきりと演じているのが功を奏している。科白も江戸前で、理屈から言えば奈良県・吉野に近い田舎道での一幕であり、上方弁で演じるのが正しいのだろうが、昭和初期以降、「権太はすっきり江戸前で」という演じ方が確立されている。上方出身の役者が演じる場合以外は、江戸前の権太を見慣れた観客にはこの方が自然だろう。幸四郎が74歳で茶目っ気たっぷりの権太を勤めるのはたいしたもので、この世代の役者では最も若々しくエネルギッシュな働きを見せているのではなかろうか。

 続いて「すし屋」。市川染五郎の弥助・実ハ三位中将維盛に柔らかみと品がある。身分を隠
し、奉公人と偽って「すし屋」に匿われており、後に正体が判明するが、維盛という武将に変わった時に、口調や所作が変わる。その中で、歩く歩幅や足取りまでがすし屋の奉公人ではなくなる。こうした細かい工夫は嬉しいものだ。この弥助の正体を知らず、恋心を寄せるこの家の娘・お里に市川猿之助。在所の娘らしくあけっぴろげな芝居で観客を沸かせるが、時として雑に見える部分がある。わずかな違いではあるが、難しいところだ。

 幸四郎の権太は、前半で駄々っ子ぶりや小悪党のずるさをたっぷり見せるので、父・弥左衛門に腹を刺されてからの、歌舞伎では「モドリ」と呼ぶ述懐が綺麗な対比になって活きる。理屈ではなく感情から発露する気持ちが伝わるのだ。一歩間違えば、父が維盛を救おうと立てた計略のミスを理詰めで正そうとするように聞こえてしまうが、そうならずに権太の考え、気持ちとして見せる。この役に似たプロセスをたどるのは、女形の芝居で『摂州合邦辻』の玉手御前に代表されるが、こちらは武士の女房で、権太は悪たれだけにその死にゆく様子に違った哀れがある。

 維盛の首を受け取りに来る梶原平三は坂東彦三郎。以前から滑舌に難があったが、科白が聴きとりにくい。権太辺りが考えそうな計略など、すでに折り込みずみの智将である。権太と梶原が置かれた構図を俯瞰で眺めてみると、地元のチンピラとインテリヤクザとのやり取りにも見え、親子や夫婦の情、などの歌舞伎の普遍性に加え、同時代性を感じるのは面白い。芝居のタイトルには「義経」の名が付くが、平家方にも多くの人々が抱えていた悲劇があり、それが三人の男に象徴されているのを改めてみると、歌舞伎が日本人の心持ちに与えて来た影響の大きさを感じる。

 どのジャンルもそうだが、芝居は何度観ても発見があるものだ。