晩年に膝を傷め、思うように芝居ができなかったのは松緑の不幸だが、最大の不幸は、自らが世を去る二年前に一人息子の初代・尾上辰之助を40歳の若さで喪ったことだろう。事実、それ以降はめっきり気力・体力ともに衰えがひどくなり、痛々しいほどの憔悴ぶりだった。
しかし、そこへ至るまでの尾上松緑という役者は豪放磊落で、明るくさっぱりした芸には定評があり、舞踊にも長けている、「江戸前の役者」としての評価は高かった。兄に十一世市川團十郎、八世松本幸四郎という、それぞれ芸風の違う役者を兄に持つ三人兄弟の末っ子は、『魚屋宗五郎』で江戸の市井に生きる人々を活写したかと思えばシェイクスピアの『オセロー』を演じ、歌舞伎十八番の『勧進帳』の弁慶を豪快に演じたかと思えば、文学座の杉村春子とロシアの二人芝居『ターリン行きの船』で老いらくの恋を演じて茶目っ気を見せた。
これは単純に「芸域が広い」というだけの問題ではない。元来、役者である以上、芸域は広くあってしかるべきだと思う。松緑の甥に当たる現・松本幸四郎は、「役者である以上は、やるかどうかは別にして、何でもできなくてはいけない」と言い、実践もしているが、私も同意見だ。そういう意味で言えば、松緑はさまざまな種類の舞台で、自分の魅力を発揮できた役者なのだと言えるし、どんな役が来ても引き受けられるように「抽斗」をたくさん持っていたということだ。。
伊東四朗が若かりし頃、松緑の大の贔屓で、楽屋へおずおずとサインを貰いに出かけたところ、付き人に追い返されたそうだ。そのやり取りを楽屋で聞いていた松緑は付き人を一喝し、「これからの歌舞伎を応援してくださる若いお客様に何ということを言うのだ」と、快くサインに応じてくれた、と聞いた。このエピソードからも、松緑の人となりが分かるような気がする。
尤も、舞台の上は明るくとも、明るいばかりの人生など誰にもあるわけはなく、先に述べた晩年の不幸のほかに、松緑は召集されて戦争にも行っている。歌舞伎役者の中で戦争へ行ったという体験を持つのは、私が知る限りは四世中村雀右衛門、五世河原崎国太郎ぐらいのもので、人気役者とは言え軍隊で決して楽な想いをしたわけではない。
この世代の役者の多くがそうであったように、松緑も六代目尾上菊五郎への崇拝は並大抵のものではなく、その芸を受け継ごうと努力を重ねた。まだ、歌舞伎界で「菊五郎劇団」「吉右衛門劇団」という二つの劇団が勢力を競っていた時代で、その主要メンバーの一人として菊五郎の養子の尾上梅幸らと芸の研鑽に励んだ若き日の努力が実を結んだのだ。
印象に残る松緑の舞台をいくつか頭の中に浮かべてみると、バラエティに富んでいる。『勧進帳』の弁慶は、昭和55年11月の歌舞伎座顔見世興行で「一世一代」として演じたものが脳裏にあるし、意外なところでは東京宝塚劇場で山田五十鈴と共演した新派の名作『鶴八鶴次郎』、先に挙げた『ターリン行きの船』などの女優との芝居もある。
もう一つ、昭和57年の京都・南座の師走の顔見世興行で演じた、狂言舞踊の『木六駄』だ。今はあまり上演されることもないが、傘を被った猟師の松緑が花道を雪の山道に見立てて登場した時に、深い山に吹きすさぶ雪の感覚を感じたのを、今でも鮮明に覚えている。そんなことはありえないような話だと考えていただけに、実際に体験した時に、松緑が持つ芸の「凄み」を感じたのだ。
そうした芸の数々を、これから伝えて行こうと心の柱にしていた辰之助を亡くした哀しみは想像を絶するものがある。しかし、共に国立劇場で初舞台を踏んだ孫が、今は自分の名を継ぎ、歌舞伎の次世代を担う役者の一人として修業に励んでいることを天国で見て、辰之助とともに目を細め、時には文句を言っていることだろう。当代の松緑は、徐々にではあるが、父や祖父の足跡を踏みしめながら歩みを進めている。