今、この名跡は「空席」になっている。関係性から言えば、子息の現・尾上菊五郎が継ぐべき名前で、「梅幸」というのは菊五郎が俳句の時に使う俳名であり、今の菊五郎が継ぐにはやや早いのかもしれない。やがて、菊五郎の子息の菊之助が八代目・尾上菊五郎を名乗る折に、自動的に当代の菊五郎が「尾上梅幸」になるだろう。
梅幸の一生は、ライバルであり、共に昭和の歌舞伎を牽引して来た中村歌右衛門と共にあったと言ってもよいだろう。歌右衛門の濃厚な芸に対し、梅幸の芸は淡泊だと言われた。歌右衛門が真女形であるのに対し、梅幸は白塗りの立役も見事にこなし、立役の名品も多い。その一方で、女形舞踊の大曲『京鹿子娘道成寺』や、時代物の名作『摂州合邦辻』の玉手御前は二人がともに得意とした役で、「両雄相ゆずらず」の横綱相撲の感があった。『京鹿子娘道成寺』などは、同じ月に歌舞伎座と新橋演舞場で競演したほどで、お互いに芸に関する矜持では良きライバルだったのだろう。
二人が円熟の境地を迎えた昭和の後期に、贔屓は「歌右衛門派」と「梅幸派」に別れたが、これは全く個人の好みの問題であり、どちらに軍配を上げるものでもない。ただ、梅幸は歌右衛門の主役をサポートするような立場で重要な役を演じた舞台が多く、これもまた名品が多かった。『忠臣蔵』の『九段目』では、立女形の戸無瀬は歌右衛門だが、対する大星由良助の妻・お石は梅幸だった。また、『本朝廿四孝』で歌右衛門が八重垣姫を演じれば、腰元の濡衣は梅幸だった。芝居の巧拙の問題ではなく、これが逆だったら、観客には馴染まなかっただろう。野球で言えば、女形同士ではありながら実に息のあったピッチャーとキャッチャーだったのかもしれない。大一座で歌右衛門が主役を演じる場合に、釣り合いの取れる相手の女形は他にも芝翫、雀右衛門がいたが、その筆頭の座にいたのが梅幸だったのだ。濃度の高い歌右衛門の芸を受けながらも、自分の見せ場はきっちり演じることができる技術が備わっていたからこそ、できた芝居である。
尾上梅幸の見事な点は、白塗りの立役で、他の追随を許さない品格のある芸を見せたことで、晩年まで衰えを見せなかった。『勧進帳』、『熊谷陣屋』の義経、先に挙げた『本朝廿四孝』でも、濡衣を他の役者が演じる場合は、八重垣姫の恋人・勝頼に回った。若く、気品と色気のある武将の役が似合った役者だが、「動かない芸」の規範とも言える役者でもあった。
歌舞伎では、時に「動かない芸」が重要である。単に自分の科白の順番を待っているのではない。役の人物になりきったまま、微動だにせずに物語の中の人物になっており、そこにいるのは「尾上梅幸」ではない。それでこそ、源氏の御大将の風格や気品も出るというものだ。動かずにいることはなかなかに難しく、特に梅幸の名品とされた役は静止している時間が多い。
「動く立役」とはおかしな言い方になるが、そうした役で立派だったのは『仮名手本忠臣蔵』の塩冶判官(史実では浅野内匠頭に当たる)だ。長い芝居の中で、判官の登場は幕開きの大序、「松の廊下」あるいは「喧嘩場」と呼ばれる『三段目』、判官切腹の『四段目』だ。通常、『三段目』と『四段目』は続けて上演されるが、血気盛んな判官が虐めに耐え、遂には殿中で刀を抜くまでに至る心理描写、そして、切腹を命じられた後、端然とその座につきながら、腹心の大星由良助の到着を待つ。この、『三段目』の動から『四段目』の静への演技の変化は実に見事というほかはなかった。今年、開場50周年を迎える国立劇場が昭和61年の開場20周年公演で、三ヵ月かけて『仮名手本忠臣蔵』の完全上演を行った。この時は、歌右衛門、梅幸、勘三郎、仁左衛門、羽左衛門など、昭和の歌舞伎を背負って来た名優たちが最後の光芒を放ったが、ここで見せた判官は今も目に残っている。
梅幸の芸は時に「淡泊」「サラサラしすぎている」との評価を受けることもあった。事実、そうした面がなかった、とは言えない。しかし、正反対の歌右衛門という存在がいたからこそ、梅幸の芸が淡泊にも感じられ、時にその味わいが貴重なものになったのである。