第二次世界大戦の混乱からまだ抜け切らない昭和24年、人気歌手の灰田勝彦が主演していた有楽町・日劇(正式には「日本劇場」。現在の「マリオン」の辺り)のレビューで注目を集め、同年に発売したレコード『悲しき口笛』が大ヒット、当時としては史上最高の45万枚を売り上げた。以降の勢いはまさに「国民的歌手」の名がふさわしい活動を続け、元号が「平成」と改まった年に、昭和の戦後を疾走した稀代のスターは52年の生涯を終えた。没後30年になろうという今も、男女を問わず多くの歌手が彼女の曲をカバーして歌っており、繰り返し特集番組が放送されている状況を見れば、このエッセイに登場するだけの価値はある。その理由は、「人気スター」であった「多くのヒット曲を生み出した」ということではない。「時代を超えて歌い継がれる曲を歌った」ということだ。
第一の肩書は当然歌手だが、「座長公演」を各地で持ち、第一部がゲストを招いての芝居、第二部がショーという構成での劇場公演を行い、満員御礼を続けていた、という点もキチンと記録しておくべきだろう。この形式が、時には「歌手芝居」といういわれのない揶揄を浴びつつも、圧倒的な団体客の指示を集めるのを、他の芝居が指をくわえ、あるいは切歯扼腕して見ていなくてはならない時期があったのだ。
私が美空ひばりの舞台を観たのは子供の頃、昭和40年代の終わりから50年代にかけての時期だ。新宿コマ劇場が家から近いこともあり、地域の商店街の売り出しの景品の一等が「美空ひばり公演 ペアでご招待」であり、地元を選挙区とする衆議院議員の後援会の集まりも新宿コマ劇場だった。後者は、先年、自民党の議員が他の劇場で行っていたことが問題にされたが、まだ今のように世知辛い時代の話ではない。一気に二千人以上を集められ、演説会とその後のお楽しみをセットにできる、という点では大劇場は効果的な使いようがあった時代でもあった。
この頃の美空ひばりは、自分のために数々の古典や名作を脚色してもらったものを多数演じている。それは、『ひばりの雪之丞変化』、『ひばりの森の石松』など、昔から多くの観客に支持されて来た名作に自分の名を冠した作品を持っていたことからもわかる。こうなると、他の俳優が演じることはできないが、観客もそれを望んではいなかった。旧来の名作を、「ひばりちゃん」がどのように演じて見せてくれるか、に観客の興味と期待があったからだ。こうした例は演劇界の中でもかなり稀有な存在だ。この一点を見ても、美空ひばりが当時、いかに絶大な人気を誇っていたかがよく分かる。尤も、こうした方法には批判もなかったわけではない。見方によっては「役者のわがまま」である。
しかし、収容人員2000人を超える大劇場を、一か月満員にできるという「数字」と「実力」がある以上、表立って文句を言うことはできなかっただろうし、それを支持し、満足する観客も多かった。一方で、親族や交友関係など、本人の技芸とは関係のない部分で毀誉褒貶が激しく、それに惑わされたのも事実だ。それらを今になって詮索するつもりはないが、本人にしてみれば「有名税」では片づけることのできないものもあっただろう。
現代は、「暴対法」などの法律が特に厳しく、「反社会勢力」と言われる団体への取り締まりが強化されている。現代社会の中では当然だ。しかし、歴史を眺めてみれば、「藝能」と「裏の世界」は切り離すことのできない一本の縄のように複雑な歴史を経て来たのだ。それを全面的に肯定するつもりはない。ただ、こうした問題が今もなお取沙汰される、ということは、江戸時代、あるいはそれ以前から「人の身分や地位」の制度の枠の外で生きざるを得なかった「アウトロー」だからなのだ。「許す」「許さない」とは別の次元で、芝居の研究をする者としては、歴史的な事実は踏まえておきたいと考えている。
「アイドル」として語り継がれるにはいくつかの要件が必要だ、と私は考えている。その一つは、「時代を創る」こと、もう一つは「早世」することだ。52歳で類まれな名声を確立した段階での死は「早世」とは言い難いかもしれないが、その代わりに「天才少女」としての伝説を遺した。この伝説は、ジェームス・ディーンや赤木圭一郎、市川雷蔵などに共通するものだと言える。
昭和から平成に掛けて時代を超えて歌い継がれる曲を多数遺した点でも、美空ひばりは充分に「伝説の人」と言えるはずだ。