実は、私は大いなる落語ファンでもある。落語の話をする時に、「昭和の名人」として必ず名前が登場するのが古今亭志ん生と、ライバルであった三遊亭圓生だ。晩年に、落語界における「真打昇進問題」で柳家小さんと意見が分かれ、弟子の三遊亭圓楽(先代)らを連れて一門を率いて落語の世界を分裂させたとも言える。これにより、寄席などの定席での高座は叶わなくなり、全国各地のホール落語や独演会を活動の場とした。当時すでに名人の誉れの高かった圓生は全国からの要望に応え、多忙なアイドルなみのスケジュールを物ともせずに、全国で落語を聴かせた。亡くなる間際まで、北海道での独演会を終えて羽田へ降り、その足で福岡便に乗り換えて、という気の遠くなるような働き方をしていた。

 いくら丈夫でも、そんな過酷な生活やストレスが身体に良いわけはない。79歳の誕生日、千葉県の習志野市に新しく圓生の後援会ができることになった。朝から体調が悪く、中野の住まいからの車の中で、珍しく終始横になっていたという。そして、後援会発足のパーティに出席し、めでたい『桜鯛』という噺を一席演じた後、引っ込んですぐに心臓発作を起こし、帰らぬ人となった。自分の芸を貫くための壮絶な「戦死」とも言えるほどの死に方だった。

 いろいろな方が書いていることだが、この日、上野動物園に贈られた初代のパンダが死んだ。翌日の新聞の社会面の見出しは、どこも大きく「パンダの死」を扱い、昭和の名人の死はその下に、パンダの三分の一程度の大きさでしか扱われず、悲憤慷慨したものだ。我々ファンにしてみれば、社会面ではなく、一面にトップで載せるべき、ともお思えるニュースだったのだ。

 圓生は、ネタが300席あると言われ、江戸弁、京都弁、大阪弁を完璧に話し分けることができた噺家だった。少年の頃は大阪で子供の義太夫語りとして活躍していたが、転んで胸を傷めたために噺家に転向した。しかし、本格的に芸の花が咲いたのは、ライバルの志ん生と共に戦時中に慰問のために当時の満州に渡り、相当の苦労をした後だった。
 以後、昭和30年代以降の圓生は、破竹の勢いとも言うべき「芸」を見せた。古典の規格をきちんと守ることに心血を注ぐ一方で、新作を劇作家の宇野信夫や菊田一夫に依頼し、新しい創作にも興味を示した。中でも、宇野信夫が圓生のために書いた『江戸の夢』などは、現在は立川志の輔などに引き継がれ、予備知識なく聞けば、昔からある古典落語だと説明されても疑問の余地のないほどだ。もちろん余業ではあるが、当時の東宝の山田五十鈴や森光子の芝居に乞われて出演し、芸術座などの舞台を踏んでいたこともある。ただ、台詞は見事だったが、下半身は座って喋るのが仕事の噺家らしい大根ぶり、という微笑ましさだった。

 晩年に、自ら厳選した100のネタを「圓生百席」としてレコードに録音し、後世に遺したのは大きな仕事である。それも、どこかでの公開録音などをレコード化したものではなく、この企画のために、わざわざスタジオで100席を新たに話したのだ。「芸の鬼」という言葉がぴたりと来るほどに、芸には貪欲だった。だからこそ、真打昇進への考え方も厳しく、「本当に芸の確かなものでなければ認められない」と、「人柄の良さも考慮しては」という温情派の小さんとの対立を生んだのだ。

 暑い夏のさなか、池袋のサンシャイン劇場で、季節らしく『夏の医者』を口演し、隙のない芸で会場を爆笑させた。訃報が届いたのはその三日後のことだ。あの時に、圓生の死を予感した人は、誰もいなかったに違いない。