現在の中村鴈治郎の祖父に当たる。昭和の上方歌舞伎の人気役者であったと同時に、映画界で大きな功績を遺した役者でもある。歌舞伎役者の歩みとして珍しいのは、昭和30年にいったん歌舞伎の世界を離れ、映画で10年ほど仕事をした後、再び歌舞伎へ戻ったことだ。歌舞伎から映画へ、という役者は古くは長谷川一夫、片岡千恵蔵から大川橋蔵などたくさんの例があるが、行き来をしたのはこの鴈治郎ぐらいではあるまいか。
とは言え、映画への転身は決して気楽な考えで起こした行動ではない。昭和30年代の関西では、今は考えにくいがほとんど歌舞伎公演が行われなかった。幕を開けても、観客が来なかったのだ。松竹新喜劇や人気歌手の座長公演など、他のジャンルに押されていたこと、歌舞伎に関して言えば一極集中が今よりも遥かに凄かったことなど、理由はいくつかあるが、当然、歌舞伎の興行回数は減る。この状況を憂いた幼馴染でもある十三世・片岡仁左衛門らと「七人の会」などを開催し、少しでも関西の歌舞伎を盛り上げようとして自主公演などを持ったが、なかなかすぐには成果が上がらなかった。その中で、「歌舞伎役者を辞めてしまおうか」という、ある意味での「背水の陣」で映画の世界に移ったのだ。
映画では、大映作品を中心に、市川崑監督の『炎上』『鍵』、小津安二郎監督の『浮草』『小早川家の秋』、川島雄三監督の『雁の寺』などで活躍を見せた。しかし、再び歌舞伎の世界に戻り、そこで歌舞伎役者として生涯を終えた。上方歌舞伎の人気者・初代中村鴈治郎を父に持つ「役者の血」が、その選択をさせたのかもしれない。
私が知る鴈治郎は、70代も半ば、すでに晩年に差し掛かっており、もとより科白覚えの悪さでは定評(?)があったため、プロンプターを使うことが多かった。耳も少し遠くなっていたのだろうか、三階席で観ていても、プロンプターの声が聞こえてしまうほどで、時としてそれが本人だけには聞こえないこともあった。そんな時は、プロンプターの方へにじり寄ってみたり、ある日は思わず「えっ?」と自分の科白をプロンプターに聞き返し、場内の笑いを誘ったこともある。普通なら、「これでプロと言えるのか」と批判が殺到しそうだが、飄々とした人柄と愛嬌で許されてしまうのが、上方流に言えば「がんじろはん」の魅力だった。これは、技術ではなく役者の魅力だ。
肉体的には老いても感性が若々しかったのか義侠心なのか、当時の歌舞伎界ではまだ「異端児」と見られていた先代の市川猿之助(現・市川猿翁)の公演などにも顔を出していた。1980年7月の歌舞伎座で『義経千本櫻』を猿之助が通して上演した折、千秋楽に当時はまだ珍しかった歌舞伎でのカーテンコールが起きた。明治生まれの鴈治郎は、初めての体験にきょときょとしながら幕の前に立ち、嬉し涙をこぼした。
根っからの上方育ちだけに、そういう味を求められる芝居では特筆するべき舞台もある。同じ1980年1月の歌舞伎座で、十三世片岡仁左衛門と演じた『沼津』の十兵衛は、晩年の仕事の中では白眉とも言える舞台だった。前年の十一月に大阪・中座で演じて好評だったものの引っ越し公演で、仁左衛門が演じる荷持ちの平作と共に、花道から客席へ降り、即興の会話を交わしながら歩く場面では客席が多いに沸いた。
この『沼津』は、鴈治郎・仁左衛門には因縁の深い芝居だ。二人の父、初代・鴈治郎と十一代目・仁左衛門は、明治から昭和初期にかけての上方歌舞伎を代表し、人気を二分した役者で、両者の贔屓同士で争いが起きたほどだ。その仲直りの印に上演されたのが『沼津』で、親子二代の当たり狂言になったことになる。
また、鴈治郎と仁左衛門は年齢も一つしか違わない幼馴染のライバルでもあり、上方歌舞伎の代表選手として扱われることが多かった。最期の舞台になったのも、82年12月の南座の顔見世興行で、当たり役にしていた『新口村』の忠兵衛で、息子の扇雀が梅川、仁左衛門が父の孫右衛門を演じるという上方メンバーだけの芝居だった。さすがに衰えは隠せなかったが、最期まで上方和事の二枚目で、いかにも「がんじろはん」らしかったと言えよう。