今年の顔見世興行は、中村橋之助が亡父・芝翫の名跡を、また橋之助の子息三人がそれぞれ襲名をする公演の二か月目に当たる。先代の中村芝翫は女形で、亡くなってまだ時間がそう経っていないせいもあり、「立役の芝翫」にはいささかの違和感を覚える向きもあるだろう。しかし、歴史上の役者を持ち出すまでもなく、今よりも大きな名前を継ぐことで、やがて役者としての芸容が大きくなり、幅が広がればそれで良いのだ。襲名披露は先代のコピーを作るものではない。新たな八代目芝翫が、今後どういう飛躍を見せてくれるのか、そこに期待をする公演だ。

 昼の部、最初は舞踊の『四季三番草』。あまり上演されないが、「三番叟」という昔から歌舞伎の幕開きに上演される踊りの一つで、邦楽に清元を使うのが特徴だ。中村梅玉の翁、中村扇雀の千歳、中村鴈治郎の三番叟という顔ぶれだが、取り立ててどうというものではない。
あえて言うなら、「21分」のこの踊りのために、11:00に歌舞伎座へ行くのは大変なことだ。あちこちで繰り返して書いているが、昼の部の芝居が11:00に開演するということは、場合によっては9:00過ぎには家を出て満員電車に乗らなくてはならない。今月は終演が3:58、約5時間に及ぶ公演を、今のスピードの中で見せる必要があるのだろうか。15分の休憩を挟み、二本目の『毛抜』が開演するのは11:36である。これでも充分に早い時間だろう。今年の6月に三部制を導入したものの、相変わらず昼の部の開演が11:00という状態を再考する必要はないのだろうか。

 続いて、市川染五郎が初役の『毛抜』だ。「歌舞伎十八番」の中でも比較的に上演頻度の多い芝居で、古典歌舞伎に横溢するばかばかしさをきっちりと演じるところに妙味がある。染五郎の粂寺弾正には愛嬌と力強さがあり、今月の昼夜七本の演目のうち五本に出演するという大活躍ぶりだ。中村梅枝の腰元巻絹はまだ芝居に硬さがある。家臣の秦民部を演じている市川高麗蔵の巻絹の方が、染五郎との互角な芝居が見られただろう。中村児太郎演じる館の姫君・錦の前が、奇妙な病気に罹り、髪の毛が逆立ってしまい、婚姻が遅れている。そこへ、文屋康秀の家臣・粂寺弾正がやって来て、事件を解決するという物語で、錦の前の紙が逆立つのは、髪の飾り物が鉄でできており、天井に磁石を持った間者が忍び込んでいたからだ、という話だ。歌舞伎には珍しい推理劇である。こういう物には大らかさが必要だが、染五郎、健闘である。
 ただ、鉄の毛抜きが立ち上がるのを見て不審に思った弾正が、天井を槍で突くと、落ちてきた間者が持っているのは同じ磁石でも「方位磁針」で、こちらには鉄を引き付ける力はない。観客から見た時に、磁石よりも「方位磁針」の方がわかりやすいだろう、ということで明治期に始まった演出だが、科学の基礎知識が当時とは違う現代の観客には、わかりやすいどころか混乱を招きかねない。今は誰もがこの演じ方だが、もう見せ方を変えるべきだろう。再演時に染五郎がどういう工夫でここを見せてくれるのか、楽しみだ。

 三本目は、襲名する中村芝翫の親子四人が揃っての『祝勢揃壽連獅子』。四人での『連獅子』は能では特殊な演出として残されているが、歌舞伎ではそうはないだろう。新・芝翫の親獅子と中村国生改め四代目橋之助、中村宗生改め三代目中村福之助、中村宜生改め四代目中村歌之助、三人の子獅子である。間狂言の後、二人の高層に片岡仁左衛門、梅玉が付き合い、坂田藤十郎が文殊菩薩で顔を見せる豪華さは、襲名披露ならではだろう。三人の子獅子にばらつきがあるのは、年齢ゆえの問題もあり、芝翫の親獅子がその分奮闘を見せる。親子での襲名は、舞台の上で役者がふと「親の眼」になることがある。役者の本分からすればいけないのだろうが、これはまた微笑ましいものでもある。

 最後が河竹黙阿弥の世話物『加賀鳶』。序幕の鳶の勢ぞろいが見ものであり、豪華だ。こうしたところを疎かにしないところに、歌舞伎の贅沢さがある。親分の梅吉と按摩の道玄の二役を松本幸四郎、女房お兼を片岡秀太郎、鳶頭の親分・松蔵が梅玉。
正直な按摩を装いながら悪事を重ねる幸四郎の二役が見もので、演じるたびに幸四郎の道玄が軽くなっている。その分、人間の内奥に秘めた悪の闇が深く、この対照がくっきり見える。軽い芝居を演じるのは一見簡単なようだが、演技術としては高等技術だ。年齢を重ねて出てきた「軽み」に加え、その裏にある「凄み」が充実した、ということだ。秀太郎のお兼、こういう味で見せる女形がとても貴重な存在になった。

 歌舞伎役者の顔ぶれも徐々に変わりつつある。大きな名前を襲名することで、歌舞伎界に弾みがつくことを祈っている。