歌舞伎界での年末の風物詩、京都の顔見世興行。今年は本拠地の南座が耐震工事のため休館中で、先斗町にある「歌舞練場」での公演となった。「歌舞練場」とは、京都の花街の芸妓や舞妓が踊りの発表会などで使うための劇場で、規模は南座の半分ほどの大きさだ。とは言え、花街が劇場を持っている、というのは京都ならではのことだ。

 収容人員が少なくなったためか、従来の昼夜二部制ではなく、三部制での公演となったが、その分、観客席との距離感がちょうど良い。花道も歌舞伎座のようにむやみに長くなく、芝居のテンポが間延びしない利点がある。昔の芝居小屋で歌舞伎を観ているような楽しみがあるが、完全な劇場として造られた建物ではないので、いささかの不自由をしのばなくてはならない。以前、南座建て替えの折に、祇園の「甲部歌舞練場」で顔見世興行を行ったことがあったが、主旨としては同様だ。

 さて、今回は「五代目中村雀右衛門襲名披露」の興行でもあり、中村雀右衛門、坂田藤十郎、中村鴈治郎、片岡仁左衛門、片岡秀太郎、片岡愛之助、市川海老蔵ら東西の人気役者が顔を並べている。確かに「東西合同」だが、往年に比べて顔ぶれが寂しくなって来たことは否定できない。

 11時開演の第一部が、愛之助が初役で演じる『実盛物語』に、藤十郎、雀右衛門で「忠臣蔵」の『道行旅路の嫁入』。第一部は見はぐってしまったので、ここは演目だけを記すことにする。

 2時から第二部、最初が鴈治郎の梅王丸、愛之助の松王丸、孝太郎の桜丸に片岡市蔵の藤原時平という顔ぶれで『車引』。『菅原伝授手習鑑』という長大な作品の一幕で、荒事、女形が演じる立役、敵役と配役のバランスがよく、時間も短いために、比較的上演回数の多い場面だ。梅王、松王、桜丸という三つ子の兄弟が、神社の社頭で喧嘩になり、別れてゆく、という簡単なストーリーだが、これが、作品の中で起きるいくつもの悲劇につながる。舞台が大きくないために、一触即発の緊迫感が身近に感じられる。鴈治郎、愛之助ともに赤い隈取をした荒々しさを見せ、対照的に女形の孝太郎が柔らかさを見せる。元気のある一幕だ。

 続いて『吉田屋』。片岡仁左衛門が家の芸の伊左衛門を演じ、夕霧を中村雀右衛門、吉田屋の主人・喜左衛門を坂東彌十郎、女房・おきさを片岡秀太郎。劇中で『五代目中村雀右衛門襲名披露口上』が挟まれる。あえて『口上』の一幕を設けずに、おめでたく、晴れやかな作品の中で、「狂言半ばではござりまするが…」と始まる劇中の口上もまた味があるものだ。

 遊蕩三昧で落ちぶれた若旦那・伊左衛門が、冬の寒さを忍んで、かつての馴染みだった「吉田屋」の夕霧花魁に逢いに来る。なかなか顔を見せない夕霧に業を煮やし、すねてみたり、吉田屋の主人夫婦に当たってみたりするが、夕霧が現われてからは二人の色模様になり、そこへ勘当が許された、と千両箱が届けられる。何とも他愛のない話だが、これが上方歌舞伎の中で「傾城買い狂言」と呼ばれる、歌舞伎のかなり古い形式を残した作品の一つだ。歌舞伎が、ドラマ性やストーリーの展開を大事にしながらも、役者の魅力で芝居を見せる芸能だということを、こうした作品を観ていると強く感じる。

 仁左衛門は、「差し出し」と呼ばれる蝋燭の面灯りで花道からの登場となるが、この瞬間の色気が素晴らしい。何も言わなくとも、大家の若旦那が遊び尽くし、落ちぶれてなお色気や品を失わぬ様子を一瞬で見せる。カンの効いた高い声が年齢を感じさせぬ若々しさを保ち、見事な伊左衛門だ。相手の夕霧は雀右衛門。先代もこの役を演じていたが、良く似た夕霧である。上方の女性の濃厚な色気はない代わりに、芝雀時代からの身上である可憐な色気が漂う。仁左衛門と雀右衛門、それぞれに父親同士が演じていた役でもある。こうした雰囲気や風情を味わう芝居は、役の性根を「身にまとう」ことが大事なのだということを二人が示した。秀太郎の吉田屋女房・おきさ。こうした上方の花街の女性の色気、という点では第一人者だ。ふわりとした上方の色気は、「演技の型」という範囲の物ではない。長年積み上げた役者の匂い、とでも言おうか。こうした大切な役どころが巧い役者が減ってきたことを感じるのも寂しい。

 最後は、市川海老蔵が演じる新作の『三升曲輪傘売』。石川五右衛門が手品を遣う傘売りに扮するという設定で、いろいろな傘を出しながら、愛嬌たっぷりに演じる15分の舞踊だ。もう一味何かほしいところで、打ち出しの気軽さはあるものの、趣向が効いているだけに、次はもう少し味がほしい。ここまでで、4時45分の終演。

 第三部は5時45分に開演し、8時20分まで、約2時間半。本来、現在の形態で上演するのであれば、通し上演のような場合を除いては第二部、第三部の時間が適当ではないか。歌舞伎の敷居が高い、という声の中に、「上演時間が長く、一日かかる」という声は少なくない。歌舞伎ファンであれば、歌舞伎三昧の一日を過ごす日の楽しみは格別だが、初心者に4時間、5時間の舞台は、ともすると肉体的な苦痛と隣り合わせだ。江戸時代のように自由に飲食しながら楽な姿勢で観られるわけではなく、海外からの観光客なども視野に入れれば、こうした時間感覚の舞台も増やすべきだろう。中身が充実していれば、決して物足りないことはないはずだ。

第三部は仁左衛門、彌十郎の『引窓』で幕を開ける。仁左衛門の南方十次兵衛、彌十郎の濡髪長五郎、孝太郎の女房お早、上村吉弥の母・お幸という配役だ。成さぬ仲の子である十次兵衛は父の跡を継いで侍に取り立てられた一方で、実の子の長五郎は悪事を犯して実家へ逃げ戻って来る。肉親の情愛と世間の義理とに挟まれた老母の苦悩、それを察した継子・十次兵衛の情が、秋の夜の京都の奥を舞台に展開される一幕。

 仁左衛門の十次兵衛が、鮮やかな科白の中に情を込めて、逸品だ。彌十郎の長五郎も、体格を活かしての熱演で、時折軽い芝居になってしまう嫌いもあるものの、仁左衛門に張り合う熱演。二人の子供に挟まれる吉弥の母が、その悲哀と情愛を細やかに演じて見せた。歌舞伎の門閥ではなく、高校を卒業後に歌舞伎役者になり、上方の歌舞伎では老け役として知られた上村吉弥という名跡を継いでいるこの役者の、今までのひたむきな歩みに感心する。

 最後は雀右衛門の花子で『京鹿子娘道成寺』。上演時間の関係と楽屋のスペースの問題だろうか、「鐘供養から押戻しまで」という珍しい上演形態だ。このやり方だと、「聞いたか坊主」をたくさん出さずに、二人の僧侶で済ませることができる。その分、短くなる代わりに、海老蔵が押戻しの大館左馬五郎で付き合い花を添える、という形だ。女形舞踊の大曲で、上演年表をみてみると、戦後、上演されていないのは4,5年しかない。それ以外の年は毎年どこかの劇場で上演されている、ということだ。五代目雀右衛門がこれからどんな『道成寺』を創り上げるのかが楽しみである。

 今年の顔見世は、昼夜ともに仁左衛門がベテランの味で自在な芸を見せた感がある。その一方で、今、歌舞伎界には若い世代がどんどん出て来ており、マスコミなどでも人気だ。歌舞伎を充分に演じられるか、という点ではいくつもの疑問符が付くが、ベテラン勢の必死の頑張りを、キチンと受け止めてこそ歌舞伎の未来がある。新しい名前が生まれ、今までの衣裳を脱ぎ捨てて新たな芸境へ進もうとする雀右衛門。こうした先輩の姿を、次の世代、その次の世代がどう活かせるか、今後の歌舞伎の勝負は始まっている。