今年創立35周年を迎えた太鼓芸能集団「鼓童」のツアーの今年の最終公演である。和太鼓の集団は数多く、最近は日本への回帰志向からか、こうした日本の伝統に興味を示す若い観客も増えた。理屈を抜きに、音だけを聴くというシンプルな、原初の芸能の形式に近いとも言えるからこそなのか、海外では人気を博している集団も多い。「鼓童」にしても、35年の間に49か国で5,800回の公演を行い、各地で高い評価を得ている。こうしたツアーを重ねながら洗練され、練り上げられて来た歴史も大きい。さらに言えば、歌舞伎俳優の坂東玉三郎が2012年4月から芸術監督として作曲や構成などに関わっているのも、他の和太鼓集団とは違う意味を持つだろう。

 こうした和太鼓集団の多くは、どこかの拠点で合宿のような形での共同生活を送り、自分たちの「音」を創り上げてゆく。「鼓童」の場合は、新潟県・佐渡島に拠点を置き、前身である「佐渡國鬼太鼓座」の流れを汲んで現在に至っている。共同生活を送る中で、技芸だけではなく肉体の鍛錬をも同時に行う。鍛えた肉体がなければ、太鼓に向かい合うことができないからだ。

 今回の公演では一体何種類の太鼓を使い分けているのかわからないが、いずれにしても大変な肉体労働であることは間違いない。太鼓を打つために鍛え上げられた肉体は、さながらトレーニングを重ねたバレエ・ダンサーのように、ムダな肉はない。その肉体と、曲によっては直径が3メートルにもなろうかという大きな太鼓との勝負に、駆け引きはない。舞台に鎮座している太鼓は誰に対しても媚びることはない。打ち手が叩くタイミングや太鼓の場所、撥の角度、力の入れよう、それらに応じた音を出すだけだ。そこからいかなる音色を引き出すかが腕の見せどころで、「打ち手と太鼓の勝負」というのはこのことだ。これは、太鼓の大小に関わるものではない。

 第一幕の最後に「モノクローム」という曲がある。大太鼓を前に、一人の打ち手が観客に背を向け、ただひたすらに太鼓を叩く。1977年に作曲されたもので、「鼓童」の前身である「佐渡國鬼太鼓座」時代のものだろうか。これなどは、聴いているうちに、太鼓と打ち手の激しい闘いが、いつの間にか愛を交わしているようなセクシャルな陶酔に変わってゆく。和太鼓=力強さ、という図式からもう一つ違ったところに、今回のツアーの目的があるように思えるのは、「螺旋」というタイトルが語っているように、何度も回った末への原点回帰、という意味も含まれているのではなかろうか。

 こうして一人で大太鼓とまさに「闘う」さまを聴かせる曲もあれば、小さな太鼓をコミカルに演奏しながら、盛り上げてゆく曲もある。多くの和太鼓集団がそうであるように、海外のいろいろな国でツアーを行うため、あえて言葉を用いずに、若干のパントマイムのような動きを含んだパフォーマンスとして見せる部分もある。何種類もの演奏を、人数や聴かせ方を変えながら進むステージには、「迫力」もあれば「愛嬌」もある。それが混然とし、いつの間にか和太鼓の響きに全身を預けてしまう。台詞があるわけではないから、意味を解釈する必要はなく、観客は「ただ聴いていればよい」のだ。そこから何を感じ取り、どう思うかは、すべて観客に委ねられている。しかし、それが統一されたテーマを持ち、太鼓の響きで訴えかけようとするものがバラバラであれば、多くの観客の支持を得ることはできない。

 無言だからこそ、の難しさはここにある。言葉で説明できないからこそ、打ち手は全身を太鼓に預け、太鼓との闘いを見せ、聴かせる。その結果が観客にどう受け止められたかは、何度も続いたカーテンコールが物語っているのだろう。新しい節目を迎えた「鼓童」が、これから何を見せ、聴かせるのか。世代も変わる中で、大きな宿題を抱えると共に、観客には楽しみに待つ時間がある。