五月の大阪・松竹座は、市川猿之助、中村勘九郎、中村七之助の三人を中心とした一座だ。昼の部を猿之助が主役の演目、夜の部は勘九郎・七之助兄弟が主役の演目とし、それぞれが付き合い、得意分野で松竹座の観客を沸かせている。宙乗り、早替わり、本水での立ち回りと各自工夫を凝らした演目に、観客は大喜びだ。

 昼の部は勘九郎の舞踊『戻駕色相肩』(もどりかごいろにあいかた)。本性を隠した石川五右衛門と真柴久吉を、浪花の次郎作と吾妻の与四郎として踊る常磐津の舞踊で、珍しい上演だ。配役は、勘九郎の次郎作、中村歌昇の与四郎、中村児太郎の禿・たより。若手の修行の場に、兄貴分として勘九郎が付き合う恰好だ。

 次が、『東海道四谷怪談』で有名な鶴屋南北の遺作となった『金幣猿島郡』(きんのざいさるしまだいり)。猿之助が主演の演目だ。先代の猿之助が復活上演し、「三代猿之助四十八撰」の中にも含まれている作品。平将門の妹・七縫姫に、『道成寺』の世界を加えた作品で、上演パターンによっていくつかの方法があるが、全編を通すと長時間になるため、今回は猿之助の清姫と零落した公家の藤原忠文、勘九郎の安珍実は頼光、七之助の七縫姫の三人を中心にした場面の上演で、最後に舞踊『双面道成寺』(ふたおもてどうじょうじ)が付いて、全三幕の上演となっている。

 三人に加えて、市川門之助、市川猿弥、歌昇らが加わる。序幕が人物やストーリーの説明が多くややだれるが、二幕に入ると猿之助が本領を発揮し、安珍への想いを断ち切れず嫉妬に狂う清姫と、零落しながらも小狡く生きようとする公家の藤原忠文を演じ分ける。最後は、お得意の宙乗りでの引っ込み。亀治郎時代を入れると今回が三回目の上演となる。大喜利の舞踊、『双面道成寺』が鮮やかでテンポが良く弾む。勘九郎、七之助は共に初役で、予想の範囲の芝居だが、猿之助に対しての気の遣いようが見えてしまう。先輩・後輩とは言え花形同士、火花の散るような取っ組み合いの芝居があっても良かった。

 夜の部は『野崎村』。昭和期に比べると、上演頻度が減ったようだ。幕切れの義太夫の「野崎の送り」と呼ばれる演奏と共に、昔の庶民の一般教養でもあった「お染・久松の世界」もだんだんと遠いものになっている。これには、老け役と女形の減少が大きく影響していることは否定できない。この演目では、特に久作を演じる役者が重要で、こうした「老け」が総体的に少なくなっている。誰もが好んで老人を演じたいわけでもなかろうが、年を重ねたゆえの味わい、長い歳月を生きている人物の含蓄のある科白に心を打たれるのも歌舞伎の魅力の一つだ。すぐに解決できる問題ではないだけに悩ましい。

百姓の娘・お光が大阪からやって来た久松に惚れる。久松は、大阪に置いて来た奉公先の娘・お染に想いを残しながらも、お光の純粋な姿にまんざらでもない。いよいよ仮祝言という日に、お染が久松恋しさに訪ねて来る。簡単に言えば「三角関係」の物語だが、ここに、江戸時代に庶民にまで浸透した「家同士の義理」という問題が絡み、結局久松とお染は別々に大阪へ帰ることになり、お光が取り残される。

七之助のお光、若い娘のウキウキと弾んだ感覚は判るが、義太夫との関係が薄く感じられ、形ばかりにこだわっているような節がある。久松の歌昇、お染の児太郎も同様で、坂東彌十郎の久作でさえその感覚が拭えない。人気のある演目は「上演しすぎだ」という批判もある一方で、上演されているうちに、持ち役にしている役者から教わっておかないと、ある日突然、断絶に近い感覚で味わいが損なわれることがある。この「野崎村」がそうだとは言わないが、この感覚を持ち続けることは必要だろう。85歳の坂東竹三郎が後家・お常での健闘。たいした芝居をするわけではなく、幕切れに顔を出すだけだが、これだけでグンと芝居に味わいが出ることからも、断絶しないようにしてほしいものだ。

 夜の部の最後は、勘九郎の主演で四回目となる『怪談乳房榎』。亡父・中村勘三郎が得意にしていた演目で、三遊亭圓朝の怪談噺を歌舞伎化したものだ。勘九郎は、絵師の菱川重信、重信の下男・正助、悪人のうわばみ三次の三役を早替わりで演じ、最後は本水が流れる大滝の場面で早替わりと立ち回りを見せながら観客席を沸かせている。こういう芝居こそ、花形には向いている芝居で、体力を考えれば、若いうちでなくてはできないし、そういう年代の役者が見せる芝居だ。

 絵師・菱川重信の妻・お関の美貌に目を止めた磯貝浪江は、絵の修行を言い訳に重信の弟子となり、子供を人質に強引にお関と関係を持つ。その上、重信の忠実な下男・正助を使って浪江を殺し、その子供までも殺そうとするが、最後は重信の霊力に助けられ、討ち果たされる、という因果話だ。

 この作品、関西の役者で跡継ぎのいない三世実川延若が持ち役として演じていたものを、先代の勘三郎が受け継ぎ、今に至っている。危ういところで断絶を逃れた作品で、『研辰の討たれ』も同じ道筋をたどって生き残った作品だ。共に、延若とは上演の方法は違うが、時代の変化に伴うバージョン・アップだと考えれば、歌舞伎にとっては好ましいことだ。

 勘九郎、三役を息も尽かせぬ早替わりで、大奮闘である。「早替わり」が、ただ姿形を替えるだけではなく、役を「演じ分ける」ことだ、という感覚が身に付いて来たようで、実直すぎていささか愚鈍にも見える下男・正助のおかしさをたっぷり見せるため、悪人のうわばみ三次が引き立つ。大詰めの滝の場面では、観客席へ水を飛ばしての早替わりに、客席は大喜び。ことに、大阪では初の上演となるだけに、観客も充分に楽しんでいる。それにしても、声から柄から、亡父にそっくりになって来た。

 お関の七之助も四回目。他の役に比べると、やはり慣れているが、欲を言えば子を持つ人妻の色気がほしいところだ。細身で立った姿の美しさは買えるが、そこにプラス・アルファがあればもっと良い物になるだろう。猿之助の磯貝。歌舞伎の役柄で言う「色悪」、いい男だが悪人、という役なので、もう少しスッキリ演じてほしかった。この役に、剃刀のように怜悧で、不気味で匂うような色気が出ると、他の役が引き立ち、大詰めの敵討ちへの流れがよりスムーズになる。

 関西の観客が、江戸を舞台にしたテンポのよい怪談に大きな拍手を贈っていたことが、新しい発見でもあった。