「ほととぎすこじょうのらくげつ」と読む。いかにも難しい題名で、作者の坪内逍遥は、明治時代に起きた「言文一致運動」の影響を受け、『小説神髄』を発表し、それまでの「戯作」を「文学」に高めた一人である。演劇界においての逍遥の仕事と言えば「日本初のシェイクスピア作品の全訳」が筆頭に挙げられるが、歌舞伎作品も遺している。時折上演される舞踊『お夏狂乱』もその一つだが、この『沓手鳥孤城落月』は、歴史劇で明治38年に初演された。豊臣と徳川の戦で、大阪城落城の折の淀君と秀頼親子、そして片桐且元らの姿を描いた作品で、『桐一葉』と双璧をなす作品だ。
六世中村歌右衛門、七世中村芝翫が淀君をしばしば演じていたが、初演の淀君が五世中村歌右衛門で、逍遥自身が歌右衛門の贔屓で、『桐一葉』や『牧の方』も歌右衛門のために書いた芝居だったという経緯がある。豊臣方が大阪城で行き場を失い、「糒庫(ほしいぐら)」と呼ばれる食糧倉庫で淀君が乱心する場面がこの芝居の見せ場になっており、ここだけを中心に上演される機会も多い。五世歌右衛門はこの淀君を当たり役にし、他にも淀君を演じたために、「淀君役者」との異名がついたほどである。
江戸時代の歌舞伎の匂いを残しつつも、登場人物が実名で、近代的な心理を描いた部分では、明治の歌舞伎の過渡期に書かれた作品としても面白い。五世歌右衛門は淀君を演じるに当たり、相当に研究を重ねたようで、こんなエピソードがある。狂乱の場面をいかに演じるかの工夫のために、とある精神病院を訪れ、見学をさせてもらった折のこと、院内を巡る中で、出会った患者に「おや、成駒屋さん、あなたもご病気ですか」と言われたそうだ。事の真偽はともかくも、明治時代の大らかさを感じる。もう一つ、これは直接聴いた話だから間違いはないが、坪内逍遥は江戸時代の作者にならい、顔寄せの場で行われる本読みを自ら行い、全部の役を読んだそうだ。今は、あらかじめ台本が印刷して渡され、作者が本読みをすることはないが、これも歌舞伎の古式に則った方法である。その口調が、どの役も五世歌右衛門の声色だったとは前進座の創立メンバーの一人、五世河原崎国太郎の話だ。
現行の上演方法だと淀君が中心の場面が多く、物語全体の主役が淀君のような印象を受けるが、片桐且元も大きな役割を果たしている。初演時にこの役を演じたのは十一世仁左衛門で、五世歌右衛門と並んで当時の歌舞伎界の覇者であったことを考えれば、いかにスケールの大きな役として書かれていたかが想像できる。尤も、且元は『桐一葉』の「長柄堤」で木村長門守と別れを惜しむという見せ場を他にも持っており、且元は、二作品のうちでは『桐一葉』の方がより魅力を発揮できるだろう。
私はもちろん実物を知らないが、五世歌右衛門は大柄で貫禄のあった役者だという。だからこそ、この役が合ったのだろう。子息の六世歌右衛門は、繊細な中に持ち前の矜持を見せる芸だった。芝翫は、叔父である歌右衛門のやり方を踏襲していたが、面長の顔が淀君にある種の特徴を加える、という効果があったように思う。
坪内逍遥は精力的に多くの仕事をしたが、中でも特筆しておきたいのは、古稀とシェイクスピアの全訳の記念に、自らが教鞭をとっていた早稲田大学に、昭和3年に演劇専門の「演劇博物館」を設立したことだ。今は新宿区の有形文化財になっており、そう大きな建物ではないが、往時の面影を残している。