この芝居には見どころがたくさんある。道楽者の河内屋与兵衛という、油屋の若旦那。商売柄、油を売るのは得意だが、度が過ぎて勘当になる。それだけならまだしも、同業者のところへ金を借りに行き、思うようにならないので、殺してしまう…。真っ暗な油屋の店先で、油にまみれ、二人が足を滑らせながら殺しを見せる場面は、この芝居の大きな見せ場だ。また、時折上演されるこの後の場面、「逮夜の場」(たいやのば)では、「犯人は犯行現場へ戻る」のセオリー通り、与兵衛が現われ、とうとうお縄になる。そこで、花道を引っ込むのだが、与兵衛は反省をするどころか、高笑いをしながら引かれて行く。この与兵衛という青年の虚無感や刹那的に生きる感覚が、現代の青年像と共通する部分が多い、とはよく言われることだ。

 片岡仁左衛門が得意とし、一世一代で演じ納めた後は、市川染五郎、片岡愛之助、市川海老蔵などの次世代の人気役者が演じている。なるほど、日本の劇作史に大きな名を遺した近松門左衛門だけあって、与兵衛だけではなく、その両親や殺されるお吉の一家など、回りの登場人物がよく描かれている。作者の近松が、今の世のありようを予想していたとは思えないが、つまるところ、どの時代も人間はそうは変わらない、ということだろう。「今の若い者は…」という言葉がすでに古代ギリシャで使われていたという事例を挙げるまでもなく、人間の本質を描くことができれば、それは時代の流れとは無縁で、古びることはないのだ、と言える。

 近松門左衛門という人は、人形浄瑠璃と歌舞伎の揺籃期を生きたため、双方を行ったり来たりしながら、多くの作品を遺している。双方で限界を感じたり、得ることがあったり、を繰り返しながら、劇作術を磨いたのだろう。心中物の道行の場面で綴られる名文は、真似ができないほどの詩情に溢れている。素地があったにせよ、歌舞伎と人形浄瑠璃の「可能性」を体験しながら模索していたことが、多くの名作を生み出す背景にあったことは間違いがないだろう。

 この作品ではとかく与兵衛と殺される「お吉」にスポットが当てられがちだが、江戸期に入って町人・庶民の間でも確立した「家制度」がよく描かれている。現在の与兵衛の父は義理の父で、店の主人だった実父が亡くなった後、番頭から婿に入った人で、いわゆる「生さぬ仲」だ。父親とは言え、元を正せば自分が仕えていた主人の子、いわば「若旦那」である。今まで世話になった店や先代に対する想いもあり、そう強いことは言えない。母も、産みの親ではあるものの、息子の行状をすべて知りながら何も言わずにいてくれる現在の夫に対する引け目や遠慮がある。そうした、「家族」「家制度」という見えない枠組みの中で起きた事件だからこそ、観客の身に迫るものがあるのだろう。

 古典歌舞伎は時に難解で、今の人には理解できない言葉も多いのは事実だ。その一方で、数百年の次代を経ても変わらず観客の心に訴える作品も多く残されている。今、時代の先行きが不透明な中で、変えなくてはいけない歌舞伎もある一方、この作品のように、そのまま通用する作品もある。

 講義や講演などでこの芝居に触れると、「殺し場で使われる油は、何でできているのか」、という質問をいただくことがある。一度やると、衣裳から何から全部洗濯しなければならないほどのリアルな質感を見せる油の材料は…。言わぬが花、だろう。