顔見世興行・夜の部は、『仮名手本忠臣蔵』から『五段目』と『六段目』、上方狂言の『新口村』(にのくちむら)、真山青果の『元禄忠臣蔵』より『大石最後の一日』と、ボリュームのある献立が並んだ。特に、最後の『大石最後の一日』は、来年1月、2月と親子孫の三代で襲名披露を行う松本幸四郎一家が現在の名で揃って踏む最後の舞台でもある。昼の部の批評でも書いたことだが、「大幹部」クラスはそれぞれの当たり役に一世一代の覚悟で臨んでいるような充実感と、その先を想う一抹の寂しさに溢れる。
まず『忠臣蔵』。片岡仁左衛門の早野勘平、今回が七回目で、立ち姿の美しさ、口跡の良さ、瑞々しさの残る色気は、幕切れ近くの「色に耽ったばっかりに」の有名な科白の説得力を充分に持っている。昨今ではなかなか出会わないが、良い舞台では役者の科白に「酔う」ことがある。「五段目」「六段目」を通して、観客を酔わせつつ、ふとした間違いで討ち入りに加わることができずに、あたら若い命を散らす男の悲劇が、全体像として浮かび上がる。斧定九郎は市川染五郎。本公演では初役だとのこと。たった一言、「五十両」の科白しかない中で、この若い家老の息子が転落した悪の道、平気で人を殺し、大金を盗んでも何も感じない冷酷さや不気味さを見せなくてはならない役だ。江戸の昔は山賊姿で演じていたこの役に、「美的感覚」を加えてここまで洗い上げた先人の工夫を想うと、歌舞伎という伝統芸能の懐を感じる。染五郎の定九郎、想像よりも線が太く、低めの科白が効果的で、たった一言ながら悪の凄みを感じさせた。通常、「五段目」では勘平に撃たれる猪が舞台を走り回り、観客の笑いを誘うが、今回は舞台を走り抜けて行くだけ。この方がよほどシンプルで、ドラマの緊張感を途切れさせることなく、スピーディに運ぶ。内容全体に大きな影響があるわけではないが、この感覚は大事にしたいものだ。
「六段目」はおかるに片岡孝太郎、一文字屋お才に片岡秀太郎、母・おかやに上村吉弥と、上方勢でまとめた配役で、落ち着いた感覚だ。孝太郎のおかるは行儀が良く、昔からの「六段目のおかるは腰元で、七段目は世話女房で演じろ」という口伝の意味が良く分かる。屋敷勤めをしている時に、勘平との恋が生まれ、それが二人の悲劇の元になる。この「六段目」では、まだ以前の感覚が身体の中に残っているようなおかるで、情愛を内に込めているのが良い。吉弥のおかや、上方の時代物が叩き込まれた役者だけに、安心して観られ、何よりも余計な芝居がない。こうしたことは実は難しいものだが、キチンとした修行の結果だろう。一文字屋お才の秀太郎、上方の遊廓の風情を身にまとっているのが年功だろう。
師走にはまだ早かったが、日本人の精神性には『忠臣蔵』の世界が心地よい共感を与えることを、改めて感じる。
次が『新口村』。東京では平成26年1月、浅草公会堂以来の上演だが、実は今年、各地で上演され、これが三度目となる。一月は松竹座で仁左衛門が忠兵衛と孫右衛門の二役、十月は名古屋の顔見世で梅玉が忠兵衛と孫右衛門の二役、今月は坂田藤十郎の忠兵衛、中村扇雀が初役で挑戦する梅川、中村歌六の孫右衛門、という顔ぶれだ。『新口村』は、忠兵衛と孫右衛門を二役替わる演じ方と、別々に演じるやり方があり、それぞれに面白みがある。しかし、場所は変われども年に三回もこの芝居が上演されるのは、『新口村』という上方狂言が危機に瀕していることの現われでもある。この前の場面『封印切』は、遊廓が舞台で華やかな部分もあり、忠兵衛と八右衛門という二枚目と意地の悪い男の対決など、見どころが多いが、この『新口村』は『封印切』の後日譚であり、登場人物も少ない。その上、梅川・忠兵衛の二人は登場するものの、主役は忠兵衛の父・孫右衛門に変わる。続けて上演する場合はコントラストも変わるが、独立して上演する時は、孫右衛門にかなりの負担がかかる役だ。上方の情愛の濃い役を得意とする老け役が、今の歌舞伎界に少なくなっていることから、この作品を歌舞伎座でも上演し、次の世代へつなげようという意味だろうか。
歌六の孫右衛門が、懸命に上方訛りを身体に入れようとした上で、情の濃い孫右衛門を見せる。藤十郎の忠兵衛は、さすがに足元が覚束なく、科白の調子もはっきりとしない。扇雀が巧い具合にカバーできれば良いが、初役で自分の事で精一杯、という状態では、ベストの舞台にはならない。歌六の熱演が空転に終わったのが惜しい。役者はそれぞれに得意とする役柄や仁と呼ばれる雰囲気が合うかどうかの問題がある上に、誰もが好んで老爺の役はやりたがらない。しかし、豊かな情愛漂う一幕は作品としてもすぐれており、遊女に溺れてお金を使い込み、行く宛のない忠兵衛が故郷を訪れ、最期の親子の別れを見せる場面だ。こうした芝居をいかに継承するかも、大きな問題になって来た。幕切れ、梅川と忠兵衛の二人が去ってゆく中、下手からの灯りの使い方が思わぬ効果を上げたのは特記しておきたい。
最後は、『大石最後の一日』。タイトルからも分かるように、吉良を討つ、という本懐を遂げた後、大名の屋敷に分けて預けられた「赤穂義士」たちのうち、細川邸にお預けとなった義士に切腹の沙汰が下る日の光景を描いた真山青果の作品だ。松本幸四郎の大石内蔵助、市川染五郎の磯貝十郎左衛門、松本金太郎の細川内記の三世代が揃い踏みで、現・幸四郎の当たり役というのも好い工夫。幕切れに切腹を言い渡す使者・荒木十左衛門に仁左衛門が付き合い、最後に「ご馳走」を味わわせるのも粋な趣向である。『元禄忠臣蔵』は、総じて女形の出番が少ないが、この『大石最後の一日』では、磯貝を慕うおみのが男装をして細川の屋敷へ入り込み、最期の対面をする、という若き男女の純愛が描かれている。おみのの児太郎が、驚くほどの情感を込め、芝居のメリハリもキチンとしたいい出来だ。
幸四郎の大石は今回が七回目。初演は昭和56年4月の歌舞伎座、前名の「市川染五郎」時代で、「若手花形」が『元禄忠臣蔵』を通して上演し、十八世中村勘三郎、中村時蔵、片岡孝夫当時の現・仁左衛門などの華やかな顔ぶれが並んだ舞台を今も鮮やかに覚えている。あれから36年、八代目幸四郎を襲名した年に演じた役を、幸四郎を受け渡す年に演じていることに、「役者の歳月」を感じる。義士の頭領としての重み、風格、いずれも見事だ。染五郎の磯貝も、静かに死を待つ「もののふ」の感覚と最後に見せる恋慕の情が良く、染五郎の名での最後の舞台に恥じぬ芝居だ。金太郎の細川内記、若殿の風格や品格にはまだ幼さが残るが、これからが楽しみな役者で、どんな「市川染五郎」になるのだろうか。
歌舞伎界の世代交替が進む中、親・子・孫の三代が元気で舞台を勤め、新しい名前に相応しい技量を持っていると認められるのは幸せなことだ。後一月と少しで、新しい名前での披露公演の幕が開く。恐らく、「平成」では最後になるであろう襲名披露、興味は尽きない。