何のインタビューだったか思い出せないが、名女優・杉村春子が、「芝居の世界で一番偉いのはどの職分か」というような質問に対し、「そりゃあ、あなた、脚本家ですよ。あたしたち役者は、台本がなければ何も喋れないんですから」と答えたのを覚えている。同じ舞台を創るのに職分に優劣を付ける必要もないが、杉村の感覚や言わんとするところはよくわかる。日々、種類の違う舞台を観ていて、いかに脚本が重要か、ということを批評家の立場で痛感しているからだ。

 フランスの劇作家で、俳優でもあったロベール・トマ(1927~1989)が遺した作品の中で、この『罠』はスリラー・サスペンスの傑作であることは間違いない。1960年に初演され、翌年には日本で初演されたばかりか、二回の映画化、各国での上演という実績がその水準を示している。日本でも初演以来、テアトル・エコー、PARCO・プロデュース、松竹、日本テレビ、俳優座プロデュースなど多くの舞台が創られ、先月の俳優座劇場でも上演されていた。

 舞台はアルプスを望むシャモニー付近にある山荘のリビングの一室。若い男が、結婚したばかりの妻がちょっとした夫婦喧嘩の後、失踪をしたと困り果てているところで幕が開く。男は、地元の警察に捜索を依頼するが、最初は単なる夫婦喧嘩に過ぎない、と相手にしなかった警察だが、失踪した妻が戻って来た。そこからドラマは予想もつかない展開を見せ始める。男は、この女性は失踪した妻ではなく、全くの別人だと言い始めた。しかし、女性は妻であることを主張し、それを裏付けるように、二人しか知らない細かな出来事までを披露する。一体、警察はどちらの言い分を信用すればいいのだろうか? どちらかが嘘をついているとすれば、その目的は何なのか。この食い違いで誰が利益を得るのか…。三幕のドラマは息もつかせぬ展開を見せ、やがて真実が明らかになる。そこまでの「どんでん返し」の繰り返しが面白く、ついドラマに引き込まれてしまう。

 芝居の世界ではよくできた作品を「ウエルメイド・プレイ」と呼ぶ。構成が巧みで、物語の展開がうまい作品、とでも言おうか。人物の性格がきちんと描かれており、ストーリーに破綻がなく、更に観客に共感・驚き・笑いなど多くの感情を与える。本来は、すべての芝居がそうであってほしいのだが、なかなか傑作は生まれないのが世の常だ。そうした中、発表後すでに60年近くが経過しようとしているこの作品は、ちっとも古臭くならず、色褪せることもない。その理由に、普遍的な人間の感情が描かれていること、大胆なトリックを使いながらも、それが最新の時代の流れに左右されるものではないことが挙げられるだろう。時代の最先端を追い、それを舞台に乗せることを望む観客も多いが、流行の終焉と同時に作品も輝きを失ってしまう場合は少なくない。そんな中、いつの時代も変わらぬ人間の心の動きや欲望にスポットを当て、それらを舞台という多くの制約条件の中で自在に動かすことができれば、ウエルメイド・プレイに発展する。

 作者の鮮やかな芝居の進め方に、何度観ても感心すると同時に、人間というものの変わらないありようを実感する。そういう意味では、非常に「人間くさい」芝居だとも言える。スリラー・サスペンスのジャンルは一度観てしまえば結末もトリックも分かってしまう難しさがあるが、作品の質が良ければ繰り返し上演されるものもある。『罠』はその一つであると同時に、見事なタイトルでもある。したたかな作家の、したたかな作品だ。