この芝居の略称を『鰻谷』と呼ぶ。大阪に今も残る地名だ。歌舞伎の中では割合に古いもので、人形浄瑠璃での初演が安永2(1774)年のことで、作者などは不詳とされている。元禄期に、古手屋八郎兵衛が、女房のお妻を殺す事件が実際に起き、これが浄瑠璃・歌舞伎の作品に取り入れられて一つの作品群になった。その中で、上演頻度は少ないながら今はこの『鰻谷』だけが残った、と言ってもよいだろう。
元・武士の八郎兵衛は、かつて仕えていた主君の家宝の刀が紛失したと知り、刀を探すためのお金に困っている。それを知った女房のお妻は、かねてから言い寄られている男と所帯を持つことにし、相手からの支度金を八郎兵衛の資金にしようとする。本心を隠して夫に愛想尽かしをするお妻に八郎兵衛は呆然とし、お妻を切り殺す。
この芝居の見せ場はこの後で、お妻は無筆で字が書けぬために、自らの気持ちや遺言を、娘のお半に「口移し」で暗記させており、八郎兵衛はお半から、自らのためにお妻が身を投げ出して金を作ったのだと聞き、涙にくれ、刀の探索に出掛ける。
粗筋を書いてしまうと何ということのない芝居で、いわば「役者の味」で見せる上方狂言の典型とも言えるものだ。現・片岡仁左衛門の父、十三世片岡仁左衛門が昭和55年3月に、東京・国立劇場の小劇場で催された「上方芸能の会」で一日だけ上演された舞台を観た記憶があるが、それ以降は、恐らく上演されていないのではなかろうか。幕切れの花道を引っ込む場面で、一瞬ではあるが、子役が二の腕にぶら下がる。この時、仁左衛門は76歳だったが、一日限りとは言え、よく演じたものだと感心する。
歌舞伎の400年を超える歴史の中で、上演されなくなった芝居はずいぶんある。400年、と大きく出なくても、私の半世紀に満たない観劇歴の中でさえ、数回しか観たことのない芝居は多い。それぞれに理由があって上演されなくなる、いわば「自然淘汰」とも言える現象で、この『鰻谷』にしても現在上演したらどういう観客の感想が返ってくるかは、あらかたの想像は付く。この辺りが難しいところで、「絶えてしまうのはもったいないから、半ば記念的に上演」しておくのが良いのか、時代の趨勢で埋もれてしまうものは仕方がない、と割り切って考えるべきなのかは、簡単に結論が出せる話ではない。いわば、そうした境目に置かれている作品が、歌舞伎にはこの『鰻谷』だけではなく他にもかなりの数がある、ということだ。
先ほど「役者の味で見せる芝居」だと書いた。元は、この芝居は明治から昭和の初期にかけて活躍した十一世片岡仁左衛門が、自らの当たり役を集めた『片岡十二集』の中の一つで、この時点で「十一世仁左衛門」という役者個人に付いてしまっている芝居であることは否定できない。まして、その後上方の芝居が徐々に衰亡を遂げてきた中で、こうした感覚が現在の観客に伝わるかどうか、非常に難しい。その一方で、約40年前の舞台が、配役も時代も変わってどのように受け止められるのか、それを観たい気持ちもある。時に、伝統は破壊しながら継承せざるを得ない。何もかも新しくするべく破壊する必要はないが、どこをどうしたら、という点での実地検証をきちんとする、という前提での上演は、この『鰻谷』に限らず、必要とされている演目は多くあるはずだ。息吹を吹き返すか、そのまま眠りに付くかは別の話だ。