人には誰しも「夢」がある。叶えられるかどうかの問題ではなく、夢を叶えようとする意欲が大切なのだ、とも言う。生き難い現代社会の中で、「これだ」という夢を持ち、そのために邁進し、努力を重ねるのは容易なことではない。しかし、我々の長い歴史の中で、もっと厳しい時代はいくらもあったはずで、「夢」を見たり持てたりするだけでも幸福だ、と思わなければいけないのかもしれない。
イギリスの脚本家、劇作家で、映画『アラビアのロレンス』の脚本でも知られるロバート・ボルト(1924~1995)が31歳で書き、出世作となった『花咲くチェリー』。保険会社で働くサラリーマンのチェリー(男性の名前である、念のため)は、妻との間に三人の子供がいるが、会社勤めが性に合わず、つい酒に逃げてしまう。やがては故郷のサマセットに帰り、リンゴ園を経営するという夢だけが頼りなのだが、それを実現するための資金も専門知識もない。会社での業績も上がらず、とうとうクビになったことを言い出せずにいるところへ、ジムに頼まれた業者が数百本のリンゴの苗木を持って来る…。
こうして粗筋を読んでみると、3回目に紹介したアメリカの劇作家、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』と非常に酷似しているように思える。しかし、最も大きな、作品の本質が違う。『セールスマンの死』の主人公、ウィリー・ローマンの夢や栄光は、すべて「過去」に存在しており、彼は過去の回想の中で現在を生きている。一方、この『花咲くチェリー』のチェリーは、実現が可能かどうかはともかくも、見ている夢は「未来」のものだ。しかし、両者も、結局破綻するという点では共通しているところが哀しい。
日本では、2004年に文学座の北村和夫(1927~2007)が八千草薫を相手に演じた物が、私がこの舞台を観た最後になったのではないかと思う。杉村春子が率いていた文学座は、女優が主人公を演じる演目が必然的に多くなるが、その中で、男優を主人公とする作品として、北村和夫はこの作品を1965(昭和40)年に初演し、大事に温めながら繰り返し上演し、この時、400回に達した。2004年の上演時に、北村和夫はすでに77歳という、この作品にはいささか厳しい年齢ではあったが、約40年にわたって磨き続けてきた作品への訣別の想いが込められていたように思えてならない。そして3年後に、80歳の生涯を閉じることになる。体力的にもギリギリのタイミングだったこを想うと、尚のこと、観ておいてよかったと思う。
数えきれない舞台作品が生まれ、上演されれば幸いで、陽の目を見ぬままに消えてゆく作品も多い。その中で、繰り返し上演されることの大変さもさることながら、より練り上げての「再演」に耐え得る作品を、膨大な芝居の中から選び出す「眼」が再演の苦労と同じほどに大切だ。私は上演の予定の有無にかかわらず、なるべく多くの戯曲を読むことを心掛けてはいるが、それとても膨大な戯曲のどれだけを読めているのか、甚だ自信がない。それだけに、「面白い」と思える戯曲を見つけた時の喜びはひとしおだ。
その一方で、戯曲として読んだ時には非常に面白く、幸運にもそれが上演された舞台を観ると、想像していたものとは全く違う物になっており、がっかりすることもある。こちらの想像力の問題だろうか。
二次元の世界の「戯曲」を、役者の三次元の「肉体」を通じて見せる戯曲の変化の面白さは、こういうところにもあるのだ。