「音楽は神と子供の領域である」と言ったのは誰だったろうか。言葉のやり取りが必要ないという点では、どこの国の音楽も楽しむことができる。そういう意味では、「世界の音楽はすべての人々のものだ」とも言えよう。

 「テュルク世界」とは耳慣れない言葉だ。中央アジアを含む広大な地域に「テュルク系」言語というものがあり、その言葉を指す。このコンサートは、「テュルク語」を使う諸国の音楽家が集まり、各国の民族音楽を聞かせる、という主旨で行われたものだ。参加した国々は「アゼルバイジャン」「カザフスタン」「キルギス」「ウズベキスタン」「トルコ」「トルクメニスタン」、そして「ロシア」の一部などに及ぶ。「トルコ」や「ロシア」を除く国々は、一般的な日本人の感覚で言えば、「聞いたことはある」「大体あの辺ではないか」程度までは分かっていても、アメリカやヨーロッパ諸国のような親近感を持っているわけではない。決して悪い感情があるわけではなく、これらの国々に関する情報が少ないだけだろう。

 遥かなる大草原を、たてがみをなびかせて馬が疾駆するイメージがある中央アジアには独特の民族楽器が多い。2弦の弦楽器「ドンブラ」、7弦の「バーラマ」、長棹の「コムズ」、胡弓に似た「ケマンチュー」や「フーチル」、洗面器のような形の金属盆の内側にガラガラと音を出すためのリングが付いた「ドイラ」、取っ手のある太鼓「ダブィル」、「ナイ」と呼ばれるフルートの一種、「クライ」と呼ばれる長い縦笛など、我々が馴染みのある楽器に置き換えられ、あるいは音にも馴染みのあるものが多い。

その中で「別格」とも言えるのは「ホムス」と呼ばれるもので、演奏者はこの小さな楽器を口の中に入れ、付属している振動弁を指で弾いて音を出す。日本語では「口琴」(こうきん)と訳され、私が知る限りでは日本では「アイヌ民族」に伝わる「ムックリ」と呼ばれる楽器が形態も演奏方法も最も近い珍しい楽器だ。金属的なだけではなく、豊かに弾む音色やスピードは千変万化とも言え、普段聞き慣れないだけに、非常に新鮮だ。

 今、紹介したのは今回のコンサートで使用された楽器の一部で、これらを駆使し、素晴らしい跳躍を誇るダンスや、厚みのある豊かな声量や幅広い音域での歌声も加わり、賑やかで楽しい音楽の祭典だ。各国ごとに、特徴のある楽曲を演奏し、舞台の奥には様々な映像が雄大なスケールで映し出される。確かに、言葉が何一つわからなくても充分に楽しむことができる「音楽」の魅力を活かした、質の高いステージだ。途中で、「京都」の風景が映し出された。「カザフスタン」のメンバーによる「さくら」の演奏で、これは日本の観客へのサービスだろうか。日本へのサービスと言えば、日本の民族楽器である「三味線」「筝」「尺八」を演奏するコーナーも取り入れてあり、正確に言えば「日本」も参加しての民族音楽の祭典、ということになる。

 中央アジアの音楽は、身近にある日々の音楽では聴かないものが多く、どれも新鮮だった。耳慣れない観客のために『ホラ・スタッカート』なども演奏されたが、やはり「口琴」の素晴らしさは見事なもので、特筆に値する。領土を他国と接していない日本だからこそ、こうした催しが新鮮に感じられるのだろう。しかし、今回のコンサートの最も大きな意義は、「中央アジア」と呼ばれる広大な地域を中心とした「テュルク語系」民族が、「音楽」を通じて一堂に会し、演奏を行ったことだ。そこには政治思想の差も経済の格差もない。日本の観客に、中央アジアの音楽の素晴らしさを伝えたい、という一心が、情熱的なステージを産み出したのだ。「音楽」を通じた国際的な文化交流である試みは、アメリカやルーマニアでも行われ、高い評価で迎えられた。

「芸術に国境はない」ことを改めて体感させる、実に素晴らしい一夜である。約2時間、休憩なしで18曲の音楽に身を委ね、遥かに広がる大地の映像を眺めていると、日々喧噪に囲まれ、イライラしている日本人のありようにも想いが至る。日本は「文化後進国」だとの声を聞くことがある。日本の文化に関する仕事をしている私は、襟を正して聞かねばならない言葉だが、こうしたステージを目の当たりにすると、日本の素晴らしい文化を諸外国へ伝えるのと同等の重さで、諸外国の文化を受け入れることの必要性をも改めて感じる。

 このコンサートでは、日本の「演劇人」の一人として考えるべき問題にもぶつかった。開演前の場内アナウンスで、「演奏中の撮影は自由です。ただし、フラッシュは不可」、そして終了後、アンコールの後で、「これから、記念撮影の時間です」との声が流れ、出演者が舞台に勢ぞろいする姿を多くの人々がカメラに納めていた。終演後はまだしも、現在の日本で「開演中の撮影」などもっての他で、「肖像権」などの法にも違反する。

それは理解し、ルールの中で生きているが、かたやインターネットの爆発的な普及などで、動画サイトには多くの映像が法では規制不能の状況で公開されている。演者の「肖像権」、作者の「著作権」などは保護する必要はあるだろう。ただ、その線をどこに引くのか。観客の多くが、今宵の楽しい想い出を、心だけではなく、帰ってから家族や友人などに見せたい、という欲求を満たしてくれる機器を持っている時代だ。

そこで旧態依然としたまま実状にそぐわない「著作権」「肖像権」「二次利用」などの法律に縛られていると、折角多くの人々に良いものを知らせる機会を持ちながら、そのチャンスを逃すことにもなる。「すべてを自由にせよ」との暴論を吐くつもりはないが、日本でのそうした権利の在り方について、大らかな大陸の人々から「宿題」をもらったような感覚である。

遥か数千キロを隔てた国々と日本の観客が、一つにまとまった舞台は、各国の魅力を知る上での新しい可能性を知らせるに充分なものであった。