ここしばらく、連日のように日本と隣国・韓国の関係に関する話題が途切れない日はない。金守珍(キム・スジン)が代表の「新宿梁山泊」で、シライケイタ作、金守珍の演出で「烈々と燃え散りしあの花かんざしよ」を上演している。
この作品は、シライが代表を務める「劇団温泉ドラゴン」で2015年の「日韓演劇週間」で上演されたもので、大正時代の「朴烈事件」を扱ったものだ。
「令和」と元号が改まり、「昭和」の向こうにある「大正」は更に遠く、もはや「歴史の彼方」である。この作品に大きく関わっている大正12(1923)年9月1日の「関東大震災」の年に生まれたとしても96歳、もはや一世紀に近い。「関東大震災」については改めて説明の必要もないだろうが、その陰で起きた、あるいは表裏一体を成しているとも言える「朴烈(ぼくれつ)事件」には、いささかの注釈が必要となろう。 震災の後、地震と火事の被害で混乱を極めている最中、「朝鮮人(当時の呼称による)が井戸に毒を入れようとしている」との噂が瞬く間に広がり、多くの「朝鮮人」が殺害、ないしは検挙された。その中に「朴烈」と内縁の妻・金子文子がおり、二人は大正天皇および皇太子時代の昭和天皇を爆死させるべく準備をしていたと「大逆罪」に問われ、死刑判決を受けた。その後、恩赦により「無期懲役」に減刑されたが、二人は減刑を拒否、金子は刑務所で自死、朴は昭和20年に釈放後、北朝鮮へ帰国し、要職に就いたものの、スパイ容疑をかけられて昭和49年に処刑された。
この歴史的事件を題材に、当時の人々の思想や生き方を描いたのがこの作品だ。祖国を追われ、日本では「国政が違う」ことによるいわれなき差別を受けながら暮らす朴と、幼い頃から里子に出され、親に捨てられて生きてきた孤独な文子の魂が出会った時から、二人の人生の歯車が大きく切り替わった。折柄、時代も大正末期、「無政府主義」や「社会主義」などの思想が一部の人々にもてはやされ、日本でも大杉栄や伊藤野枝などの名を知る人は多いだろう。こうした名も今となっては歴史の教科書で知るぐらいかもしれない。しかし、大正末期に起きた事件の主人公とも言うべき朴がその生涯を終えたのは昭和の後半、今から45年前のことだ。
芝居は大正11年、震災の前年から、文子が縊死する昭和元年までを描いている。梁山泊のメンバーを中心に、松田洋治を客演に迎えての舞台はスピーディで熱気に溢れ、テンポよく進む。何よりも、シライケイタの脚本が、歴史的事実を舞台で説明するのではなく、自然に芝居の中に取り込んでおり、押し付けがましくないのが良い。 観客は歴史の講義を聴きに来ているわけではなく、約100年前に起きた事件の中に生きる人々の息遣いや、そこから聞こえる声を聴きに、その表情を観に来ているのだ。それが、金の演出で活きている。
同時に、観客の一人として否応なく突き付けられるのは、約100年前の事件が姿かたちを変えながら、今の日韓両国の間に、歴史的な事件を含んだ問題として横たわっていることだ。もちろん、現在の問題の原因はこの事件だけではないが、両国を巡る現状には、嫌でも想いを致さざるを得ない。ここで「嫌韓」だの「反日」だのと感情的な議論をしても何の発展もないであろうし、この作品に関わる人々の誰一人としてそれを望んではいないだろう。それよりも、我々の知識の中にはあまり情報がない、こうした問題をいくつも抱えながら歳月を過ごしてきた二つの国が、今後、どういう形で歴史を重ねるのか。観客の想いはさまざまでも、この舞台が問い掛けようとしているのは、そこではないのか。少なくも私はそう思う。同時に、両国の政治的な問題と、演劇や音楽などの芸術や芸能は一緒に考えるべきではないだろう。 今の日韓の間には「怒り」「呆れ」「不信」など、多くの否定的な感情が渦巻いていることは、残念ながら否定はできない。しかし、こうした舞台を通し、もう一つ「冷静に考える」という感情を呼び覚ますこともまた、必要ではないのだろうか。 2019.08.16 ザ・スズナリ