このエッセイのタイトル「ためつすがめつ」とは、あまり耳に馴染みのない言葉かもしれない。漢字に直すと「矯めつ眇めつ」となり、物事を様々な角度からじっくりと眺めるとの意味である。歌舞伎の人気演目『寺子屋』の中で、重要な人物の首を討ち、それが本物かどうかを確かめる「首実検」の場面がある。ここで、義太夫が「眼力光らす松王が ためつすがめつ 窺い見て」と語る。この場面の緊迫感が好きで、タイトルに選んだという次第。
ここ一、二年、諸々の理由で芝居を観る回数が減ったが、それでも年に100本以上の芝居は観ていることになる。一回限りで、二度と同じ物ができない「舞台」を、心新たに「ためつすがめつ」客席で観ようとの心だ。これは舞台に限ったことではなく、生来のそそっかしさとあわてんぼうもいい加減に落ち着き、多くの物事をじっくり眺めたい、との想いもある。 誰しも一年の時間は同じで、今やこれだけが「平等」と言えるのかもしれない。そんな時代、芝居を観ようと思えば毎日でも観られる環境にいられるのは有り難いことだ。しかし、その分、雑に観てしまっては芝居に申し訳がない。読書もしかりで、「量」から「質」への転換を図ろうということになる。
同じ芝居を何度も観ていながら、時に新しく気付くことがある。それまでうっかり見過ごしていたり、当たり前だと思い込んでいたことに改めて疑問を抱いたりと、いろいろな時に「発見」がある。これが、妙味とも醍醐味とも言えるところだ。この発見の小さな喜びを少しでも多く味わうためには、「ためつすがめつ」舞台を眺めることが重要だ。これは、年々衰える集中力が編み出した「脳みそのズル」かもしれない。しかし、何十年ぶりかで再訪した景勝地の光景が、自分の頭の中にあるものとは全く違って映ることがあるのと同様だと考えることにした。開き直って言えば、「20代ではわからなかったことが、今だからこそ気付くのだ」とでもなろうか。
気取った言い方をすれば「思索を深める」ことだ、とも言える。せっかちな性格ゆえか、思い付いたら即実行、で今までを過ごして来た。しかし、今後は、その前にひと時立ち止まり、本当にそれでよいのかどうか、考えてから動かねばならない、と思っている。もう「脊髄反射」で行動する年代でもなし、多少は過去の経験を参考にできるようでなければ、これからの進歩もないのではないか、と思うのだ。
仕事柄、芝居の台本を読む機会が多い。「会話」で成立している台本の何気ない一言、一行の台詞に、深い意味が隠されている場合も少なくない。そうしたものを、今までよりも深く時間をかけて読み込むことで、掬い上げられることも深くなるはずだ。その分、観劇も読書も数は減るだろうが、「量」よりも「質」に転化することで得られるものは少なくないはずだ。
今年の抱負、と気負うほどではないにせよ、これからはそんな感覚を頭の隅からもう少し真ん中の方へ置いて仕事をしようと思う。その気持ちを込めての「ためつすがめつ」なのだ。