昭和の後半に、「ジャパゆきさん」という言葉があった。当時はまだ貧しく、発展途上にあった東南アジアを主とする国々の女性が、日本へ「出稼ぎ」に来て、故郷へお金を送る。しかし、男性ではなく「女性」であるところに、哀しみと日本の「恥」の歴史があるとも言えるだろう。日本と韓国との間で先の大戦期間の「従軍慰安婦」の問題がやり取りされていることはここでは触れないことにする。それよりもはるか以前、日本から海外諸国へ女性が出稼ぎに行く「からゆきさん」たちがいた。「から」は、恐らく「唐」だろうが、中国だけを指すのではなく、東南アジア、ロシアなど、日本から比較的近い海外諸国を意味したようだ。
青年座の財産演目である宮本研(1926~1988)の『からゆきさん』は、明治37(1904)から翌年にかけて行われた「日露戦争」の時代に、熊本・天草出身の巻多賀次郎(まき・たがじろう)を中心にした物語だ。大陸をあちこち歩いた末にシンガポールに腰を据え、日本から自分の地元の貧しい女性たちを買っては「娼館」を経営し、遠く離れた祖国のために、遊女と共にせっせとお金を送る。女性を売買して娼婦の斡旋をする「女衒(ぜげん)」と呼ばれた商売だ。こうした行為は褒められたものではないが少なくはなく、また、哀しいことにそういう商売を必要とし、涙ながらに娘を売らなければならない貧しさが日本にあったのも、否定のできない事実だ。 劇中で巻が経営している娼館は「二十六番館」という。同じ「からゆきさん」を素材にし、「売られる女性の視点」で文化座が繰り返し上演して高い評価を得た作品は『サンダカン八番娼館』で、サンダカンは現代のマレーシアにある。東南アジア諸国の大きな港町には、複数の娼館が存在していた、ということだ。
明治から昭和初期までの女性の悲劇を描いた作品だが、『からゆきさん』は主人公・巻の半生の中で、同じことをしていながら国情の変化で自分の立場が変わり、日露戦争の勝利と共に、それまでは「献金」や「寄付」で故郷でも名士と言われた男が、戦争に勝利した途端、「恥ずかしい仕事で稼いだ卑しいお金」とされ、無用にされてしまう物語だ。巻の客観的な価値が変わった途端、娼館にいた女性たちは、巻を残し、自分の新天地を探してまた旅立つ。しかし、この女性たちはまっすぐに故郷を目指すのではなく、他の娼館のある場所へ身を移すだけなのだ。巻同様に、今や祖国へ帰っても白い目で見られる存在になってしまったからだ。この作品を良くみると、「国」と「個人」、「男性」と「女性」の関係の優劣が、一瞬にしてひっくり返る姿を描いているように見える。
今回の公演で、今まで回を重ねて来たメンバーでの上演はラストとなる。巻を演じる綱島郷太郎の、一見粗暴で単純だが、どこか憎めない子供のような感覚を持った芝居も、これが最後かと思うといささかの寂しさを覚える。次回、どんなメンバーでいつ上演され、その時にどのメンバーがどうなるのか、詳細はわからないが、綱島はこれが最後のようだ。繰り返し上演しているだけあって、メンバーの息はぴったりで、劇団ならではの芝居の良さが出ている。娼婦の一人、「お国」を演じる津田真澄の安定感と、感情のメリハリの表現が見事。松熊つる松が演じる同じ娼婦の「お福」の情感、巻の妻・キノの渕野陽子の陰翳が、芝居のいいアクセントになった。
時として、「明治」の時代感が出ない部分もあるが、もう100年以上前の空気感や「匂い」を求めるのは、ジャンルに関わらず難しくなっている時代だ。これは、劇団や作品を問わず、今後の課題になるところだろう。しかし、それを恐れていては、過去の優れた作品の再演はできない。時代が移ろう中で、そうした乖離をどう見せ、感じさせるかが、制作や演出、俳優の腕の見せ所であり、創り手の「眼」でもある。